【東京創元社】
『闇の底のシルキー』

デイヴィッド・アーモンド著/山田順子訳 



 以前読んだ山下京子の『彩花へ――「生きる力」をありがとう』は、平成九年におきた神戸連続児童殺傷事件で娘の彩花を殺害された母親の書いた本で、娘を失った悲しみを乗り越えて、その短い生のなかに大きな意味を見出していくという、悲壮でありながらも感動的な内容となっているが、この本を読んであらためて思うのは、履き古した自分の靴に対してさえも、まるで対等の人間であるかのように感謝の言葉をかけることのできる子どもがいるいっぽうで、「聖なる実験」と称して自分と同じ子どもの命を次々と奪っていった、狂気にとらわれた子どももいる、というたしかな事実である。

 まるで光と闇のように対極に位置するように見えるこのふたりの子どもは、しかし同じ子どもであり、それ以前に同じ人間でもある。はたして、何がここまでふたりを隔ててしまったのか、ふたりのあいだにどのような違いがあったのか、と思わずにはいられないのだが、そもそも私たち人間というのは、善であると同時に悪でもあり、心のなかに光と闇の両方を共有し、つねにその狭間を揺れ動いていくことを宿命づけられた存在である。そしてその業深い性質は、たとえ未成熟な子どもであってもけっして例外ではない。よく「子どもは天使」などということを訳知り顔で語る人がいるが、とんでもない。子どもは天使であると同時に悪魔でもあり、精神的にも成熟していないぶん、そのふたつの相反する性質が、ときに極端な形で発揮されるというだけのことだとも言える。そういう意味では、『彩花へ――「生きる力」をありがとう』という本は、子どもたちがもつ両極性――どちらへも大きく傾いていく可能性のある、繊細で不安定な心の姿を浮き彫りにした手記でもあるのだ。

「おかしなものだな。怖いものが見たい、恐ろしい思いをしたい、闇をのぞきこみたいという欲望が人間にあるのは」

 本書『闇の底のシルキー』の、そのタイトルにもある「シルキー」とは、炭坑のなかに現われるという小さな子どもの幽霊のこと。「幽霊」ととりあえず書いたのは、落盤事故などで坑内に閉じ込められて死んでしまった少年坑夫の幽霊ではないか、という説もあるからで、じっさいにシルキーがどういう存在なのか――妖怪なのか、精霊なのか、あるいは炭坑夫たちが地中深く降りていくさいにともなう、闇と死への恐怖を正当化するための作り話なのか、はっきりしたところはわからない。ただひとつわかるのは、シルキーが絹(シルク)の光沢みたいにきらめく存在であること、地中深くのはてしない闇のなかで、唯一光り輝いて、人々を導く役割を担っているということである。小さなシルキーは、炭坑夫たちにとってけっして怖い存在ではないのだ。

 一人称の語り手であるキット・ワトソンが両親とともにストーニーゲイトの町に引っ越してきたのは、祖母の死によってひとり取り残された祖父のためだった。ワトソン家は代々炭坑夫として、この町で暮らし、石炭を掘りつづけてきた家系であったが、キットの時代には炭坑はすでに閉鎖され、人々は炭坑の存在を忘れようとしているかのようであった。そんな寂れた町を舞台としているせいなのか、少年の語りによって進んでいくはずの本書であるにもかかわらず、その文章から伝わってくる雰囲気はどこか物静かで、陰鬱ささえ感じられるものがある。

 かつての活気を失った古い町、見捨てられた地下の坑道、雪に閉ざされてしまう冬へと移り変わっていく季節、徐々に記憶を失い、確実に死へと向かっている祖父、そして、酒乱の父親から日常的に虐げられてきた少年ジョン・アスキューが考案した、秘密の坑道内での<死>を模したゲーム――本書全体を支配している、いつまでもつづく曇り空のような雰囲気は、こうした負の要素によってもたらされるものである。あるいは、こんなふうに言い換えてもいいかもしれない。語り手であるキットは、似たものどうしだと断言するジョンとともに、ふだん人々が見ようとしないもの、本当はたしかにそこにあるにもかかわらず、まるでそんなものは存在しないかのようにふるまい、忘れてしまおうとしているさまざまなもの、「闇」という言葉に集約されるようなものに対しても、家族や友だちを見るのと同じように見、まるで自分の一部であるかのように接することができる、良くも悪くも純真な子どもであるのだ、と。

「おまえの作文はおれのスケッチと似てるんだよ、キット。どっちも他人を闇の奥深くに引きもどし、いまだにおれたちの心の内に闇が息づいていることを教えている」

 ジョン自身が見抜いているように、キットとジョンは、どちらも闇と死という未知のものを怖れながらも、いっぽうでは魅入られている、という意味でよく似た存在ではある。じっさい、キットは祖父からシルキーや落盤事故で死んだ少年坑夫たちの幽霊の話を聞き、また<死>という名のゲームを体験するようになってから、死んだはずの少年たちの幻を頻繁に見るようになっているし、そのある種の幻覚は、のちに彼自身が書くようになる物語にも影響をおよぼすことになる。だが、ふたりのあいだで決定的に異なるものがあるとすれば、それはそれぞれの置かれた家庭環境である。キットにはかつて炭鉱の町だった過去のストーニーゲイトのこと、暗い闇に閉ざされた坑道での仕事の本質をよく知っている祖父がいて、闇というものが必ずしも「死」や「無」ばかりを象徴するものではないことを知ることができる立場にいるのに対して、ジョンにあったのは無力な母と暴力で子どもを支配しようとする父であり、また何も得られないという絶望だけである。

 本書を読んでいけばわかることであるが、そこでおこった事件というのは、じつはそれほど劇的でも、また大袈裟なものでもなく、少年少女であれば誰もが一度は考えたこと、あるいはじっさいに似たようなことをやってみたことがあるかもしれない程度のことである。だが、重要なのは彼らが何をしたのか、という行為ではなく、同じように闇と死に魅入られたふたりが、そこにある本質を子どもなりの想像力で形にし、伝えることができたということである。それは、地中深くから掘り出された石炭や化石が、太古の昔からのメッセージを封じ込めて今を生きる人たちに多くのものをもたらすように、そして親から子へ、そして孫へと受け継がれていくように、連綿とつづいていくということである。そして、そういう意味で本書の舞台として、かつて炭鉱で栄えた町を選んだこと、そしてそこではたらいていた老人がキットの祖父であるという設定は、本書のもっとも大きなテーマを引き立たせるのに、これ以上はないという役割をはたしたと言うことができる。

 人はいつか必ず死を迎える。それはけっして逃れることのできない人としての運命であるが、だからといって「死」そのものにあえて近づいていったり、むやみに恐れたり、あるいは自分の中に無理に取り込もうとしたりすればいい、というわけではなく、またそんなことをしても根本的な解決になるわけでもない。キットにとって物語を書くこと、ジョンにとって絵を描くこと、そしてアリーにとって演技をすることは、おそらく深い闇のなかでほのかに光るシルキーをつかまえることと同義なのだ。そして、そんな彼らの才能が正しい方向へと伸びはじめたとき、私たちはきっと、人間としてひとまわり成長した子どもたちの姿を見ることになるだろう。(2006.02.06)

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