【新風社】
『きちきち四世』

遠藤望森著 



 絵本などを手にとるのは、いったい何十年ぶりのことだろう、と思う。もはや子どもというにはあまりにも齢を重ねすぎており、なおかつ、今もなお自由気ままな独身生活を満喫している私にとって、絵本というジャンルはもっとも遠いところにあるものだと思っていた。たとえ、私が本好き人間であり、書店でも「大人のための絵本」なるコーナーを設けて、かつて子どもだった大人の購買意欲を刺激しようとも、その購買層の中に自分という人間が含まれているとは正直言って、考えることすらなかった。どうやら、私の頭の中には「絵本=子どもの読み物」という構図がしっかりと刷り込みされてしまっていたらしい。

 だが、そういった刷り込みは、しばしばたったひとつの事実によって否定され、あっさりと崩れ去っていく運命にあるらしい。そう、たとえば、私たちが学校で教えられてきた日本の歴史の一部が、新しい遺跡の発見によって変更を余儀なくされるのと同じように。

 世の中は絶えず変化流転しており、それまで事実だったものが新しい謎になってしまったり、それまで謎だった部分が解明されたりといった、一種混沌とも言うべき様相を呈している。そうした世の中の混沌を、そのままの形で読者に提示しようと試みることで、それまで私が抱いていた「絵本=子どもの読み物」という刷り込みを打ち壊してしまったのが、本書『きちきち四世』という絵本だ。なにしろ、本書の中にあるのは、さまざまな形の、答えのない疑問ばかりなのだ。

 誰かに呼ばれて(と本書には書かれている)卵から孵った奇妙な鳥型生物「きちきち四世」は、生まれてきたのはいいが、自分が何ものなのか、ここはどこなのか、自分は何をしなければならないのか、さっぱりわかっていない。生まれたときにそばにいた「爺」と名乗る鳥型生物にいろいろと質問をぶつけてみるものの、「爺」は周囲の様子をただ見せるだけで、何も説明しようとはしない。「きちきち四世」は、いろいろ見たり聞いたりしたことを判断した結果、自分たちは空の上にいて、下界の人間からは「神様」あつかいされていること、そして、彼らの願いを叶えるべく努力しなければならない存在らしいことを知る。だが、それで疑問が解消されたかと言えばそんなことはなく、卵はどこから来たのか、なぜカミがトリなのか、カミはなぜ人間の願いを叶えるのかと、かえって疑問は増すばかりなのだ。

 自分はどこから来たのか、自分は何ものなのか、そして自分はどこへ行くのか――本書に描かれている、一歩間違えればギャグになりかねない、投げやりな水墨画(と言えばいいのかどうかは疑問だが)に反比例して、その内容はひどく哲学的で、読者はきっと少なからぬ戸惑いを覚えるであろうし、おそらく子どもが読んでもチンプンカンプンなのではないか、と危惧するかもしれない。その思いは、あるいは正しいかもしれない。大人に理解できないことを、子どもが理解できるはずがない、と。だが、それは同時に間違いでもある。なぜなら、子どもはときに、大人などが思いもしない、並外れた想像力を発揮する、未知の可能性を秘めた生物であり、こうした哲学的な問いに関しては、しばしば子どもたちの柔軟な思考がより真理に近いところに辿りつくことがあるからだ。

「きちきち四世」にさんざん質問攻めにされた「爺」は、けっきょく何ら答えを教えることなく、どこかへ行ってしまう。おそらく、彼もまた何も知らないし、何も教えてもらっていないのだろう。だが、言葉にこそできなかったものの、彼は彼なりに何かを考え、彼なりに自分のやるべきことを成したのだと言うことができるだろう。あるいは、と思う。仮にその答えを言葉にして教えたところで、その答えは「きちきち四世」にとってはただの言葉である以上の意味をもつことはない、ということを知っていたのかもしれない。

「この世界は疑問であふれかえっている」と「きちきち四世」は思う。はっきりとした答えのある疑問もあるだろうが、大抵のものは答えらしい答えのない疑問ばかりだ。それは、実体のない蜃気楼のようなもので、つかまえたと思っても、次の瞬間には水のように掌からこぼれおちてしまう、とりとめのないものなのだ。人の一生というのは、ある意味で、疑問を追求しつづけるようなものなのかもしれない。捕まえては取り逃がす、その繰り返しのなかで、人は何を考え、何を思い、そして何を実行し何をあきらめるのか――それを決めるのは、他の誰でもない、自分自身なのである。そして、いろいろに思い悩み、経験を重ね、自分自身の中からにじみ出るようにして導き出した、言葉にできない答えこそが、彼にとっての真実であり、真理でもあるのだ。

 すでに大人になり、良くも悪くも子どものように柔軟な思考を巡らせることが叶わなくなってきた私に、本書について言えるのは、この程度のものだ。仮に、私が結婚し、自分の子どもを授かるようなことがあったとして、その息子なり娘なりに本書を読ませても、そのときはおそらく何もわからないだろうと思う。だが、その子どもがやがて大きくなり、ある日ふと、本書の一場面を思い出すようなことがあれば、そのときこそはあるいは、私にも理解することのできなかった何かを理解することができるのかもしれない。(2000.04.17)

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