【早川書房】
『君のためなら千回でも』

カーレド・ホッセイニ著/佐藤耕士訳 



 真実がときに残酷なものであるということは、このサイトの書評をとおして何度もくり返してきたことのひとつであるが、もし真実が、それを知る人々に痛みをもたらすものであるとするなら、真実など知らなくても構わない、という考えが出てくるのは、ごく自然なことである。じっさい、人は自身の主観でしか世界をとらえることができないし、ともすると過去の出来事を自分の都合の良いように歪曲してしまうものだが、それは真実と直面することで心が傷つくのを避けようとする、人間の生きるための知恵だという見方もできる。人はあらゆる真実を受け入れることができるほど、強靭な心をもっているとはかぎらないのだ。

 ミステリーにおいて、探偵が殺人事件の真相を追究するのは、彼が被害者の側に立っているからに他ならない。たとえ、その殺人が関係者全員にとって都合の良いことであったとしても、そのために命を奪われた被害者はけっして浮かばれない。そして真実というものは、しばしば強い力をもつ者たち――時の権力者や為政者たちによって、隠されてしまうものでもある。探偵にとって、事件の真相をあきらかにするというのは、被害者の人間としての尊厳を回復するための行為でもあるのだ。そしてそれは、何も死んだ人間のためだけにあるのではない。真実を知ることは、ときに痛みをともなうものであるかもしれないが、その先には本当の自分、ありのままの自分の姿がある。そんな自分自身と向き合うというのは、あるいは嘘をつき続けること、偽りの自分を演じ続けることに疲れきった人たちにとっては、おおいなる解放の瞬間となりうるかもしれない――私が今回紹介する本書『君のためなら千回でも』を読み終えたとき、まず思ったのはそういうことである。

 しかもこのペシャワールで明かしてくれたことは、数々の変化をもたらすと同時に、はっきりと見せてくれた。私の人生全体が、一九七五年の冬よりも前、歌を歌うハザラ人の女がまだわたしの乳母だったころよりずっと前にあった嘘と裏切りと秘密の、繰り返しだったことを。

 本書の原題は「THE KITE RUNNER」、日本語に直すと「凧追い」ということになるが、これはアフガニスタンに古くから伝わる伝統行事のひとつ、凧合戦における一種の競争である。凧はただ空に飛ばすだけではない。凧糸にはガラスの粉末がまぶしてあり、それで相手の凧糸をいかにして切るかというのが凧合戦の醍醐味なのだが、糸が切れて落ちてくる凧を手に入れることもまた凧合戦の楽しみであり、そうした凧を奪い合う人たちのことを指すのが「凧追い」である。そして、本書における一人称の語り手であるアミールの回想のなかに登場するハッサンは、この「凧追い」が群を抜いて得意だった。そう、本書はアミールとハッサンの物語であるのだが、このふたりのあいだにどのような「過去」があったのか、そしてその「過去」に対して、四半世紀が経過した現在において、アミールがどのような決着をつけることになるのかが、本書の読みどころということになる。

 アミールとハッサンの関係を、ひと言で説明するのは難しい。いや、別の見方をすれば、彼らの関係ほど単純でわかりやすいものはない、とも言える。幼なじみであり、親友であり、また最良の友でもあるという関係――だが、当時彼らが暮らしていたアフガニスタンの社会情勢や、彼らの置かれていた家庭環境が、その単純なはずの関係を複雑にし、ややこしいものにしてしまった、というのが正直なところである。アミールの父親であるババは、首都カブールで数々の事業を成功させた裕福なパシュトューン人であり、ハッサンの父親アリが、ババの召使いとして働いているハザラ人であるという事実――身分の違いと民族の違い、さらには同じイスラム教徒であっても、スンニ派とシーア派であるという違いが、ふたりのあいだに立ちはだかっていたという事実がある。本書を読むさいに、まずはそうした事実を念頭に置いておく必要があるのだが、さらにババとアリとの間には、ある個人的な事情が隠されていることが、本書を読み進めていくと見えてくる。

 上下巻で構成されている本書において、上巻はおもにアミールの過去の回想を語るものであり、下巻は現代におけるアミールの行動を追うという構成になっているが、とくに上巻における子ども時代のアミールは、ともするとこのうえなく自分勝手で嫌な子どものように見えてくることがある。それは、ときにアミールがハッサンに対する優位性を再認識したいと思うときなどに、顕著に表れてくるもので、読み書きのできないハッサンに嘘の言葉を教えたり、わざと怒らせるような言動をとったりすることからも見て取れる。なによりアミールは、ハッサンが自分の召使いであるという認識があり、それはすでにふたりの関係が対等ではないことを指し示すものであるが、ここで忘れてはならないのは、彼らが生きた社会全体が、すでにそのような身分差別をあたり前のものとして受け入れていたという当時の情勢である。そして、もし本当にアミールがハッサンのことを、ただの召使いだとしか思っていないのであれば、そもそもこの物語が生まれてくることはなかったはずである。

 じっさいには、アミールは常にハッサンのことを気にしているし、彼の存在を特別なものとして認識してもいる。そしてなによりハッサンのほうが、アミールのことを親友として慕っているという、間違えようのない事実がある。そうした心理的な部分を、説明するのではなくふたりのちょっとした言動や何気ない態度などで表現し、それがストレートに伝わってくるところが本書の特長のひとつであるが、ふたりの関係において問題があるとすれば、それは明らかにハッサンのほうが、人間として出来ている、という点だと言える。

 それは、あるいは過去を回想するアミールによって、美化された記憶であるのかもしれない。だが、それでもハッサンが知恵と勇気の持ち主であり、なによりその力を惜しみなくアミールのために振るってくれたという事実は変わらない。それは、本を読んだり詩を書いたりすることが好きで、ともすると臆病風に吹かれてしまいがちなアミールとは、ある意味で対極的な位置づけにあり、それゆえにふたりはなおのこと人々から比較対象されやすい。とくに、厳格で何よりも人としての誇り――弱い者を助け、権力や暴力にはけっして屈しないという態度を貫くババにとって、理想の息子としての姿をアミールではなく、ハッサンに見出していることを、アミールは感じとっている。

 父として、また人として誰よりも尊敬しているババの愛情を、誰よりも受けたいと願うアミールにとって、ハッサンという幼なじみは、けっしてひと事では説明のつかない、複雑で微妙な感情の入り混じる存在であり、それゆえに自分自身の気持ち――ハッサンのことをどう思うのかという気持ちについて、子どもであるがゆえに素直になれないところがあった。そんなふうに考えたときに、この一連の物語は、なにより本当の自分の気持ちと向き合うというテーマがあり、そのうえで、愚かさゆえに犯してしまった手酷い裏切り行為の贖罪というテーマが生きてくることに気づく。自分がなぜハッサンを裏切り、長くつづいたその関係を断ち切るようなことをしでかしたのか――臆病者で、それゆえに大切なことから逃げ続けてきたアミールが、まず最初に立ち向かわなければならなかったのは、まさにその点なのだ。

 今では絶えない紛争地域の国という印象の強いアフガニスタンの、戦争以前の人々の暮らしをはじめ、その国の辿ってきた数多くの悲劇を背景に、今ではアメリカで作家としての道を歩みつつあるアミールの回想は、ふたたび彼をアフガニスタンへと引き戻す。はたして彼は、そこで何を見出すことになるのか、そして過去の過ちについて、どのような決着をつけることになるのか、ぜひともたしかめてもらいたい。(2010.08.09)

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