【講談社】
『蕎麦ときしめん』

清水義範著 



「金正日はなぜいつも人民服を着ているのか」

『死刑』などの著書で有名な森達也は、とあるエッセイのなかでこんな疑問をさらりと言ってのける。言われてみれば、テレビなどで私たちが目にする金正日は、いつも人民服を着ている。仮にも国家を代表する立場にある人物としては、あまりにもパッとしないというか、野暮ったい服装である。だが、少なくとも森達也が言葉にしてそのことを指摘しないかぎり、私はそのことに疑問をもつことさえなかったのではないか、と思わずにはいられない。

 私はべつに、この場で北朝鮮のことを語りたいわけではない。重要なのは、金正日の着ている服が他ならぬ人民服であるということに目をつける視点が存在する、という事実である。ふつう、そんなことを話題にはしない。他にも話題にすべきことはいくらでもあるはずで、金正日が人民服を着ていようと、スーツ姿であろうと、なんら問題はないはずなのだ。しかしながら、森達也は金正日の人民服に着目した。いかにもどうでもよさそうな着眼点である。だが、にもかかわらず、私はその着眼点に意表をつかれることになった。

 と、こんなふうに書いていけば、今回紹介する本書『蕎麦ときしめん』のもつ雰囲気の、その一端なりとも伝わるであろうか。たとえば、表題作である『蕎麦ときしめん』に書かれているのは、名古屋市の住民に対するきわめて一方的で偏見に満ちた意見を書いたものだ。いわく「名古屋人にとって車こそがステータスシンボル」である。いわく「名古屋人にとって紳士的態度は気障ったらしい態度」である。いわく、「名古屋人は田舎者であり、名古屋とは非常に大きな村落」である――私は名古屋方面には一度だけオフ会で行ったことがある程度であり、そのときは喫茶店のモーニングサービスが異様に豪華で、なんとも太っ腹なことだという印象をもったりしたのだが、そんな私でも、ここに書かれていることがきわめて極論めいた、その真偽を確かめるまでもなくデタラメなものでしかないことを察するのは、さほど難しくはない。

 もちろん、著者もそんなことは百も承知だ。だが、そうした奇抜で馬鹿げた発想は、しばしば私たちの記憶に強い印象を植えつけるものでもある。たとえ、それがデタラメであったとしても、小難しい真実よりは、わかりやすい嘘のほうが面白い場合が往々にしてある。著者の書く短編集は、そうした人間心理をたくみに刺激するようなところがある。『蕎麦ときしめん』でいえば、それが論文という形をとって書かれている、という点がミソだ。名古屋人の田舎人気質を大真面目に論じたあげく、東京人と名古屋人を蕎麦ときしめんにたとえ、「アイデンティティの確立」であるとか「社会への埋没」といった、いかにも小難しい言い回しで飾り立てられているこの作品は、その体裁が論文というお堅いものであるがゆえに、そこに書かれていることの馬鹿馬鹿しさがよりいっそう際立つことになる。

 表題作を含む六つの短編を収めた本書は、いずれも馬鹿馬鹿しいほどくだらない事柄を大真面目に論じる、というスタイルをとっている。『序文』という短編では、「英語語源日本語説」という論文の序文だけで構成されたという形をとる作品で、そもそも英語の語源が日本語であるという発想自体がありえないものであるのだが、なまじその論を認めようとしない学会への反論のやり方だけが妙にリアルであるだけに、妙なおかしさを感じずにはいられない。そもそも、序文でそんな反論しなくてもいいだろうに、と突っ込んでしまったら、読者は著者の策略にすっかりはまってしまっていると言っていい。

 じつにくだらないことをいたって大真面目にやる姿は、それだけで人々の笑いを誘うものがある。そういった笑いというものは、なかなか狙ってできるようなものではないのだが、恐ろしいことに著者はそれをすべて計算ずくでやってのけているところがある。その気になれば、著者はどんなくだらない事柄でもいたって真面目でお堅い文章で論じることができるに違いない、と思わせるものが、本書のなかにはたしかにあるのだ。少なくとも、蕎麦のなかにアイデンティティの確立という要素を見出し、それをいかにも説得力のある文章で構築することができるのは、著者くらいのものだ。

 それゆえに、著者の手にかかると、猿蟹合戦も司馬遼太郎の時代小説並みの重厚さをもつようになり、よぼよぼの爺さんの打つ麻雀も阿佐田哲也の麻雀小説並みの緊迫感をもつようになる。だが、題材が題材であるだけに、書かれた文章のもつ雰囲気はその内容とどんどん乖離していき、その落差が読者を笑わせることになる。たとえば『三人の雀鬼』のなかにある緊迫感は、真剣勝負の緊迫感ではなく、よぼよぼの爺さんがおぼつかない手つきでイカサマをやろうとするのをヒヤヒヤしながら見て見ぬふりをしなければならない、別の意味での緊迫感へとすりかえられてしまうのだ。

 本書に書かれているのは、「金正日がなぜいつも人民服を着ているのか」といったどうでもいいような事柄だ。だが、そのどうでもいいような事柄を題材に、ユーモアのある作品として昇華していくためには、相当の文章力が必要となってくる。そういう意味で、本書はハイセンスな作品集であり、当然のことながらそれを読む人たちにはそうしたセンスが必要となってくる。はたしてあなたは、本書のユーモアをどこまで理解することができるだろうか。(2009.05.28)

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