【集英社】
『桐島、部活やめるってよ』

朝井リョウ著 



 私もかつて中学生や高校生だった時期があるので、ある程度は実感できるのだが、彼らにとっての学校というのは、家以外ではほぼ唯一、その時間の大半を過ごす場所であり、良くも悪くも視野の狭い彼らにとっては全世界に等しいものだと言っても過言ではない。だからこそ彼らは、そのきわめて限定された世界でできるだけ居心地のいい学校生活を送りたいと望むし、またそこでいじめなどの問題をかかえてしまったときに、そこが彼らにとっての全世界であるがゆえに極端な行動に走ってしまったりもする。

 もちろん、それは何も中学生や高校生にかぎった話ではなく、全般的に私たち人間のとらえることができる世界というのは、きわめて限定的なものでしかないことを知っている。そういう意味では、私たちは本来的に偏見に満ちた思考をもつものであるし、また生まれ育った環境ゆえの偏見から逃れられない生き物でもある。だが私たちは同時に、知識や経験によって世界というのは相対的なもの、自分たちの今いる世界だけがすべてではないと想像する力をもってもいる。世界に広がりがあるかないかというのは、ときに人が生きるか死ぬかの境界線にもなる。十代思春期の男女といえば、そのあたりの経験に乏しいところがあるゆえに大胆であり、また残酷でもあるのだが、もし彼らにとっての青春というものが躍動する瞬間があるとすれば、まさにその大胆さゆえのものであることも事実だ。

 本書『桐島、部活やめるってよ』を評するにあたって、まずはそのタイトルがもつニュアンスの絶妙さについて触れる必要があるだろう。この明らかに何者かのセリフを思わせるタイトルは、少なくとも桐島本人のものではないし、また桐島本人に対して発されたものでもない。こうしたセリフはあくまで当人がいないところで、数ある噂話のひとつとして取り上げられるような軽いノリを多分にイメージさせるものである。そして本書の内容についても、そんなニュアンスを象徴するかのように、桐島本人は一度として登場してこない。だが、にもかかわらず桐島の名前が本書のタイトルを飾っているのは、彼の部活をやめるという行為が、彼の周囲にいる人たちにとってそれなりの意味をもつものとして捉えられているからに他ならない。

 バレー部のキャプテンであり、また自身も腕の立つプレーヤーとして部員を引っ張っていく存在だった桐島――そんな彼が唐突にバレー部をやめることになった理由については、本人の弁がない以上、読者がそれぞれ類推していくしかない。だが、たとえ当人が語り手としてその理由を述べる機会があったとしても、きっと要領を得ないものになっていただろうことは、本書の語り手のひとりとして登場する、同じバレー部の小泉風助の章を読んでいけば、おのずとわかってくることである。だが、ここでいう「わかる」というのは、けっして論理的に理解できるというたぐいのものではない。言葉では説明できないのだが、なんとなく感じ取ることのできる違和感によって、少しずつ自身の居場所が――さらには、自分のなかにある大切な何かが失われていくような嫌な感覚が、結果として桐島にそうした決意をさせたとしか言いようのないものが、そこにはたしかにある。

 別に孝介のイライラがメンバーに伝染したわけでも、日野のへこんだ気持ちが伝染したわけでもなくて、たぶん一日に一ミリずつとか、きっとそれは本当にわからないくらい、まるで春が夏になっていくように、桐島はぽかんと浮かんでしまった。

 言葉にできない微妙な心の揺れ動きを、小説という言葉がすべての表現形式であえて伝えていこうという意図を感じる本書にとって、じっさいのところ桐島がなぜ部活をやめることになったのかの説明は、さほど重要なものではないし、もしそれができるようであれば、彼はきっと部活をやめるような事態になっていなかったのではないか、とさえ思われる。かりに言葉にできたとしても、その瞬間にそれまであった気持ちが消えてしまうほど微妙なもの――それを桐島に代わって代弁してくれるのは、風助をはじめとする五人の生徒たちだ。とはいうものの、なかには桐島に会ったこともない生徒もいたりするのだが、いずれも共通しているのは、桐島がバレー部のなかで感じていたような違和感を、同じように意識せずにはいられなくなっているという点である。そしてそれは、学校という特殊な閉鎖社会特有の感覚だとも言える。

 同じクラスメイトのなかでも、誰がどう決めたというわけでもないのに、いつのまにか決まったグループができていたり、なんとなく上とか下とかいった階層が生まれていたりしていて、なんとなく誰もがその不文律に従わざるを得ないような雰囲気が、多かれ少なかれ学校という環境にはある。こうした環境は、そこに通う生徒たちにとってはあまりにあたり前すぎて、そもそも疑問に思うことすらないような状態となっている。本書の語り手となって登場する生徒たちは、そんな雰囲気にいつのまにか取り込まれて、本来の自分を押さえつけ、周囲に合わせようとしている自分の姿に気づいた者たちだ。そしてそれはいずれも、桐島が部活をやめるという出来事が起因している。

 本書のタイトルについて、私はそこに軽いノリをイメージさせるものがあると書いた。だがその軽いノリは、じっさいには軽いノリにしたいという生徒たちの声なき声を反映した結果であるとも言える。そう、小学生のころからバレーが好きで、しかもバレー部のキャプテンにまでなった桐島が、それでもバレー部をやめるからには、それ相応の理由があった違いないのだ。だが、生徒の誰もそこに目を向けたりはしない。見えてはいるが、あえて見ないように、考えないようにしている。そういう意味で、本書のタイトルはじつに秀逸であるし、まさにこの物語を象徴するものである。

 部活をやめるという行為は、学校生活においてそれほど珍しい出来事というわけではない。おそらくどこの学校でも、誰かがそうしようかと考えたり、あるいはじっさいにやめたりするような事柄だろう。だがその当人にとっては、その出来事はまぎれもなく自分自身の唯一無二の出来事であるはずだ。こうした思春期のまっすぐさを、何気ない学校生活のなかで表現しようとした本書に、学校生活を体験したことのある者であればきっと何かを感じることになるに違いない。(2013.01.19)

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