【新潮社】
『吉里吉里人』

井上ひさし著 



 信頼とは何か、ということをふと考える。

 たとえば、貨幣は信頼のひとつの形である。言うまでもなく、貨幣の原料はただの金属であり、ただの紙でしかない。その金属や紙が「お金」という単位となり、あらゆるモノやサービスと交換可能なものとして通用するのは、そこに「信頼」があるからに他ならない。仮に、私がここで勝手に新しい貨幣を発行したとしても、それが円やドルといった貨幣と同等の価値をもつわけでないのはあたり前だが、それは私の発行した貨幣に「信頼」がないからだ。1円なら1円、1ドルなら1ドルとしての価値が、その国の発行する貨幣に内包されているという大きな「信頼」が成立しているからこそ、貨幣はお金としてふるまうことができる。もちろんそこには、贋金を容易に流通させないという「信頼」も含まれている。

 独自の貨幣を流通させているのは、たいていは国であるが、その国の価値がそのまま貨幣の価値、すなわち「信頼」となるのだとすれば、はたして国の「信頼」とはどういうものなのだろう、という疑問が生じる。国が国として成立する条件は多々あるが、そうした国としての基盤が盤石であればあるほど、信頼も大きくなるというのは、たとえばいつ潰れるかもわからない銀行や保険にお金を預けたくない、という心理を考えればわかりやすい。だが、そもそも価値を決めるのが自分ではなく、自分以外の多数の他者であると考えたとき、「信頼」とはある国や組織ありきで生じるものではないという、ある意味であたり前の発想が生きてくる。

 極端な話をすれば、もし「私」という個人にしか創造できない「何か」があり、かつその「何か」が世界じゅうの人々に真に求められるものであったとするなら、その「信頼」によって、いずれは私の発行する新しい貨幣は「貨幣」として通用するという理屈が成立する。逆に言うなら、もしその「信頼」が自分にあるのなら、たとえお金が一銭もなかったとしても、私はその「信頼」をお金代わりとして生活を続けることができるだろうし、じっさいにそれに近いようなことを試みている人がいることも知っている。今回紹介する本書『吉里吉里人』は、東北の小さな村にすぎなかった吉里吉里村が突如として日本からの独立を宣言する、という内容の小説であるが、今から三十年以上も前に書かれた作品でありながら、そこにふくまれるテーマが今もなお色あせないものであること――つまり、今の日本がかかえるさまざまな問題を浮き彫りにしていることに、まずは驚かされる。これは言い換えるなら、現代になって明らかになってきたように思われる日本社会の問題点が、じつはずっと前から指摘されていたことであり、かつその問題が何ら解決されないまま今にいたっている、ということでもある。

「日本が、日本の政府がどう思おうと、県の役人がなにを言おうと関係ねえんでねえの。一定の土地があって、その土地さ定住する住民が居で、その住民の意志ば代表する政府があれば、それらの住民が独立しようと志すときだれもそれを妨げることは出来ねえ。これ一九三三年のモンテビデオ条約さ載ってる言葉だす。ああ、なじょにもかじょにも美すい言葉だべなあ」

 うだつのあがらない中年の三流小説家、古橋健二がたまたま乗り合わせていた青森行きの急行列車が、独立を宣言した吉里吉里国への不法侵入ということで停車させられ、強制的に収容所へと護送される、という形で進む本書は、古橋側からすれば完全に吉里吉里人(もともとは吉里吉里村の村民)の騒動に巻き込まれた形となっている。じっさいに彼と、彼の付き添いで同行していた編集者の佐藤は、当初予定していた取材の目的をさまたげられる格好になるのだが、今回の騒動がけっして冗談のたぐいでないこと、そして吉里吉里人たちが、日本からの独立を維持するために周到な事前準備と国際的な根回し、そして、あくまで独立を認めようとしない日本に対するいくつもの切り札を用意していることを知ったふたりは、自分たちが事件の渦中にいることを最大限利用するため、吉里吉里国に居残り、その実状を見て回る決心をする。

 方言のひとつにすぎなかったズーズー弁を正式に「吉里吉里語」とし、米などの食糧はもちろん、電気すら自前の地熱発電所でまかない、住民への課税なし、完全な金本位制の通貨「イエン」を流通させたり、タックス・ヘヴンの国として世界じゅうの大企業の投資を集めたり、さらには世界でも最先端の医療を供給する国だったりと、話が進むにつれて独立宣言をした「吉里吉里国」の凄さが見えてくる本書は、いっけんするとどこまでもコメディーめいた調子であるにもかかわらず、この書評の冒頭でも書いたように、国としての「信頼」とは何か、という深いテーマに肉薄している。

 もともとは日本のなかにある小さな農村でしかなかった吉里吉里国は、軍事力については微々たるものでしかなく、仮に他国からの武力介入が生じた場合、吉里吉里国はわけもなく蹂躙される運命にある。そのことを百も承知の吉里吉里人たちは、それゆえに軍事力を増大させて国を守るという発想を捨て、国際的な地位をこのうえなく高めることに力を注いだ。とくに吉里吉里国の医療立国としての側面は、世界でもトップクラスの技術とサービスを取り揃え、その高い技術をもって国際社会に貢献することで国を守る盾とするという発想から来ているものであり、それは国の中におよそ資源というものをほとんどもたない日本の問題にもつながってくるものだ。

 こうした要素は、本書を読んでいくとおのずとわかってくることであるが、それが意味するのは、この吉里吉里国の独立宣言は、そこにいたるまでに相当に長い期間をかけた下準備の末、万難を排した形で決行されたという点である。だが、あくまで今回の事件に巻き込まれた日本人の古橋にとっての吉里吉里国とは、まさにある日突然、まるで夢幻のように出現した、奇妙奇天烈な異世界である。ひとつの大きなテーマとして、今の日本がかかえる国としての問題に真っ向から対立する形で書かれている「吉里吉里国」――そこにはたしかに独立国として成立させるだけの説得力があり、またそれを支えるだけの圧倒的な知識を垣間見ることもできるのだが、ともするととんでもなく重いテーマになりそうなその内容は、意外なことにどこまでも軽妙で、また冗談めいたものでもある。そして、そうした雰囲気を支える要素のひとつとして、吉里吉里人たちが公用語としてもちいる吉里吉里語、東北の方言のひとつであるズーズー弁が醸し出す可笑しさがある。

 たとえば、きわめて重要な国際会議をギャル語だけで進めるとなったときに、私たちがどうしても感じてしまう違和感は、国際会議というテーマの重要性と、それを語る言葉の軽さのギャップから生じるものだ。言葉というものは、ときに人の性質を変える力を発揮することがある。教師が教師らしい言葉遣いをすることで、あるいはヤクザがいかにもヤクザっぽい言葉遣いをすることで、その言葉を操る人の態度にまで影響をおよぼすように、ズーズー弁には「田舎臭い」「無教養な」といった印象がどうしても付きまとう。著者は当然のことながらそうした性質については知り尽くしたうえで、あえて吉里吉里国の公用語としてズーズー弁を採用し、吉里吉里人たちに例外なくズーズー弁を語らせている。そしてズーズー弁たる吉里吉里語は、その言葉のイメージゆえにどんなに真面目な話であっても、まるで冗談のような雰囲気をまとってしまう。そして、そうした雰囲気もふくめたうえで、吉里吉里人のアイデンティティとなっている部分すらある。

 吉里吉里国のことをまったく知らない部外者でありながら、物語のなかで一種の狂言回しとして、吉里吉里国の独立騒動の渦中の人となってしまう古橋は、ズーズー弁はあくまで田舎臭い東北の方言でしかない、という認識をもつという意味で、私たち読者の立ち位置を代表するキャラクターだと言うことができる。また、それゆえに彼は吉里吉里国内でたびたび軽率な言動を引き起こしては、国賓になったかと思えば犯罪の被告人となったり、かと思えば吉里吉里国の文学賞を軒並み独占したりといった、その立場がめまぐるしく変化していくことにもなる。私たちにとって吉里吉里人の価値観が、理屈ではきわめて正当なものだと認めながらもどこか異質に感じるのと同じように、吉里吉里人たちにとっての古橋とは、共同幻想のなかに紛れ込んできた異物である。だが吉里吉里人たちは、彼らのかかげるユートピア的理想ゆえに、異物としての古橋を排除することができない。そしてその一点が、最終的に吉里吉里国の独立をわずか一日半で崩壊させる遠因となる。

 独立を認めない日本をはじめとする強国を相手に、けっして軍事力ではない、しかしけっして無視することのできないさまざまな力を駆使し、一歩も引かない立場を維持してきた吉里吉里国が、たったひとりの愚かな中年作家のせいで水泡に帰す――ある意味で、これほど壮大なオチのついた作品は他に見たことがない。はたして古橋と吉里吉里人のどちらにとって災難だったのか、という点もふくめ、今もって多くの切り口をもって読者を魅了する本書に、ぜひ挑戦してもらいたい。(2015.05.14)

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