【岩波書店】
『名馬風の王』

マーゲライト・ヘンリー著/那須辰造訳 



 自分には特異な才能がある、という思い込みは、ときに人を痛々しい言動へと走らせる元凶でもあるが、もし本当に何らかの才能のある人が、その才能をまったく発揮できないような状況に置かれているとすれば、それはたしかに当人にとっては不幸なことだと言えるだろう。だが、他ならぬその才能の有無を誰が判断するのかといえば、それは自分ではなくむしろ自分以外の他人であることが普通であって、言い換えれば誰かにその「才能」を見いだしてもらわなければ、当人は自身の「才能」に気づかないまま生涯を終えてしまうこともおおいにありえることである。それはそれで当人にとっては不幸なことかもしれないのだが、その「才能」を見いだした人も、報われないという思いをいだくという意味では似たようなものだ。せっかく見つけ出したダイヤの原石を、道路工事の砂利として使われていたとしたら、その価値を知る者たちにとってはたまったものではないだろうというのは、想像に難くない。

 少年少女と動物との特別な絆というのは、児童書というジャンルにおいては定番ともいうべき要素のひとつであるが、今回紹介する本書『名馬風の王』も、とある少年と一頭の馬との物語という点では、この定番を踏襲している。ただし本書の場合、その舞台となるのがモロッコというイスラム教圏であり、物語の主役たるアグバは少年でありながら、王宮の馬屋係のひとりとして働く身であるという点が、異色といえば異色なところである。そう、本書はサラブレッド種と呼ばれる、現在の競馬界では知らぬもののいない種のもとになった馬の物語であり、その馬は小柄でありながら足の強いアラビア馬なのである。

「――ねえ、シャム。おまえが大きくなったら、世界じゅうの人が、おまえに頭をさげるようになるよ。『風の王』といわれるようになるよ。きっと、そうなるようにしてやるよ」

 モロッコ王(スルタン)の御殿にある馬屋で働くアグバが、特別に目をかけていた牝馬が子どもを産んだ。彼にシャムと名づけられたその子馬は、その土地における幸運と不運を兼ね備えるような身体的特徴を有していた。災いを引き起こすと言われる「小むぎっ子」の胸毛と、くるぶしに生えている、駿馬を象徴する白い毛――むろん、馬にとってそういった言い伝えなど何の意味もないものであるが、少なくともシャムが他の馬はもちろん、平原を生きるどんな動物も追いつけないほどの俊足の持ち主であることは、文字どおり母親代わりになってシャムを世話しつづけたアグバが誰よりもよく知っていた。

 だが、ここでアグバの抱えるひとつの身体的障害が、本書の物語構成において非常に重要な意味を帯びてくる。アグバは生まれつき、口がきけないのだ。そして幼くして馬屋で働いているという事実から、読み書きといった教育も彼にとっては無縁のものであり、それゆえにアグバは自分の知っていることを他の人たちに伝える手段をもっていない。「シャム」という馬の名前すら、アグバが心のなかでつけた名前にすぎないのだ。つまりアグバにとって、人と接することよりも、むしろ同じようにものを言わない動物たち、とくに彼が世話している馬たちと接するほうが、より親近感をもつことができるということになる。じっさい、アグバはシャムをはじめとする馬たちの機嫌についてはひと一倍敏感で、まさに馬たちにとって「かゆいところに手が届く」ような世話をする子どもであり、いっぽうのシャムにとっては、自分を産んですぐ死んでしまった母親代わりがアグバである。

 たぐいまれな俊足であるにもかかわらず、その事実を誰も知らず、またアグバでなければ全力疾走はおろか、まともに言うことをきかせることすらできない、ある意味クセの強い馬シャム――物語は、シャムを含む六頭のアラビア馬が、フランス王への贈り物として選ばれ、それを世話する少年馬丁としてアグバもフランスに渡ることになるのだが、ここでシャムの「小むぎっ子」としての災いと、アグバの口がきけないという障害が、彼らに接する人々の誤解を生み、彼らを土地から土地へと放浪させる要因となっていく。モロッコから地中海を渡るさいには、船長が彼らの食料を買う金をちょろまかしてしまい、長く空腹に苦しめられ、ようやくベルサイユ宮殿に着いたと思えば、馬たちの体格の貧弱さを笑われたあげく、シャム以外の馬は突き返される始末。ただ一頭残ったシャムにしても、レースで走ることとは程遠い、荷物運びなどの作業馬として使われる日々を送ることになる。

 異国の地におけるアグバとシャムの扱いは、劣悪に近いものがあり、それゆえに彼らはフランスからイギリスへとさらに居場所を転々とせざるを得ない状況に追い込まれるのだが、アグバたちとかかわる人たちすべてが悪者というわけではない。むしろ彼らの境遇をあわれんで、救いの手を差し伸べるような人も大勢いるのだが、なにしろアグバは口がきけず、シャムはアグバ以外の人間の言うことを聞きはしない。それゆえに人々は、ときにはシャムを無理やり御しようとしてひどい目にあったり、泥棒と勘違いしてアグバを牢屋に閉じ込めたりしてしまう。もっとも、アグバが異国の言葉を話すことができたとしても、身分制度の厳しい当時のフランスやイギリスで、彼の話をどれだけまともに訊いてくれたかは、なんとも言えないところはあるが、やはり本来あるはずの才能について、自分たちからは何も主張できないという逆境は、シャムの走りの才能が本物であるとわかっているだけにもどかしく、だからこそ先が気になってしまう。

 馬という生き物は、古くから荷役などの作業とは別に、より速く走ることになかば人為的に特化してきたところがある。馬たちにとって、走るというのは生きる目的そのものなのだ。そうした馬たちの才能をいかに活かしていくかを扱った作品、という意味では、たとえばK.M.ペイトンの『駆けぬけて、テッサ!』などもそうであるが、かつて「風の子になる」と予言されたシャムの走りに対する才能が、少しばかり形を変えて開花していくというのは、本書ならではのダイナミズムだと言える。同時に、たとえどれほど困難な道のりであっても、強い夢と信念によって乗り越えられるというメッセージにも心打たれるものがある。

 繰り返しになるが、才能というのは、他の大勢の人に認められて、はじめて才能と呼べるものとなる。それと同じように、いっけんすると大きなハンディキャップのように見えても、それが別の才能を開花させるきっかけとなる場合もある。はたしてアラビア馬のシャムは、どういう意味で「風の王」としての才能を見いだされることになるのか、ぜひたしかめてもらいたい。(2013.10.30)

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