【晶文社】
『子どものための美しい国』

ヤヌシュ・コルチャック著/中村妙子訳 



 私たちの生きる社会は、いろいろな問題をかかえている。そして、そうした問題をなんとかしようと思い立ち、行動に移す人たちがいる。彼らは自分たちの社会に対して、「何かおかしい」という感覚を抱くからこそそうした運動を起こすのだが、それがいつのまにか、ある特定の概念のための運動へとすり替わっていたり、そうした運動の結果として成し遂げたものが、当初目指していたものとはまったく違った姿をしていたりする、というのは、過去の革命の歴史において何度も繰り返されてきたことでもある。

 なぜ、こんなことが起きてしまうのか――これはとても難しい命題ではあるが、その根底にあるキーワードを挙げるとすれば、それは「多様性」ということになる。現状の、さまざまな問題をかかえる社会の対極に、「理想の社会」というものがあるとする。では、その「理想の社会」とは、どのような姿形をしているのかと考えたとき、そこに統一した見解など見いだせない、ということに気づく。なぜなら、「理想の社会」のとらえ方など、人によって、立場によって、そして時代によって異なるのがあたり前であるからだ。そしてある人の「理想の社会」が特化すれば、それは必然的に独断的なものとなり、かならず他の人たちの反発を買うことになる。

 本書『子どものための美しい国』に登場するマットは、父ステファンの死によって幼くして王位につかなければならなくなった少年である。本書はそんなマット王が「子どもたちの王」として、子どもたちにとっての理想の国を実現すべく奮闘していくという物語であるが、ここでひとつ押さえておかなければならない点として、マットというキャラクターに対する読者の感情移入の問題が挙げられる。

 マットは一国の王ではあるが、それ以前に、じつは幼くして両親に死に別れるという不幸を体験しなければならなかった子どもでもある。本来であれば、まだまだ父や母の庇護下にあって、自分が愛されているということを充分に堪能すべき年頃だ。そして彼が王位についたとき、彼は読み書きも計算もできない、ほんとうの意味での子どもでしかなかった。ここで私たち読者は、マットを「ひとりぼっちの可愛そうな子ども」として認識することになる。

 本来であれば王としての役割など果たせるはずもないのだが、マット自身はけっして頭が悪いわけでなく、また強い意思の持ち主でもあった。じっさい、彼の王位継承後に起こった三つの国との戦争のさいは、側近や大臣たちがそうした情報を隠していたにもかかわらず、マットは独自の情報網でそのことを察知し、また彼自身が一歩兵として、身分を隠した上でわざわざ前線に赴くという行動力も見せている。

 それは無謀といえば、あまりにも無謀な試みではあるが、そうした行動の裏に、マット自身の「王としてなすべきこと」に対する真摯な態度が見て取れる。こっそり前線に向かったのも、「王は国民を守るべきだ」という使命があったからこそであるが、その真摯さは、無知な子どもであるからこその純粋さでもある。こうした戦場での経験は――その後の、人食い人種の国への来訪もふくめ――児童書における冒険物語のようなテイストがあり、読者はここでマットという少年に少なからず感情移入していくことになる。幼くて何も知らない少年マットが、危険な冒険のはてにさまざまな経験を積み、大きく成長していくという体験を共有するのだ。

「あなたがたは大人の国民を統治してください。わたしは子どもたちの王になるつもりです。――(中略)――それらの子どもたちの王として、わたしは自分の好むやりかたで統治します。しかしそのほかのことはすべて、これまでと同じでよろしい。わたしは若いから、若い者の必要がわかるわけです。」

 マットは王という権力者であるがゆえに、やりたいと思うことをやってのけることができる。だが同時に、そんなことをすれば自分の国が立ち行かなくなることも理解している。そして、自分の無知を認めたうえで、他の国の王や目上の人たちに対して、率直に意見を求めることもできるが、同時に子どもであるがゆえの短絡的な行動をとることもある。こうしてマットの言動を見ていて気づくのは、子どもであるにもかかわらず、国を治める立場にあるという、なんともアンバランスな状態だ。何より彼は純粋に、王としての――子どもたちの王としての役割をまっとうしようと、至極真面目に考えている。つまりマットの言動は、けっして悪意から生まれているのではないのだ。そして、だからこそどこか危なっかしい。

 マットは子どもたちのためにさまざまな改革を試みる。そしてそれは当初、チョコレートを配ったり、動物園やキャンプ場をつくったりするようなものから、しだいに本格的なものへと変わっていき、ついには子どもたちのための国会をつくるところにまで行き着く。はたして彼の改革がどのような結末を迎えるのかは、ぜひ本書を読んでたしかめてもらいたいのだが、子どもというものが、純粋であるがゆえに欲望に忠実で、ときに残酷でさえある、というのは、ウィリアム・ゴールディングの『蝿の王』でも書かれていることではある。本書の場合、マットの周りには頼りになる大人たちがいるが、その大人たちにしろ、かならずしも善人ばかりではない、という事情を忘れるわけにはいかない。そして、仮に善人であったとしても、置かれた立場によっては善人ではありえない行動を選択せざるを得ない、ということも。

「王さまって、なんのためにいるんでしょう?」とマットは無邪気にきいた。
「もちろん、王冠をかぶるためだけではありません。自分の国の国民に幸せをもたらすためです。ですが、どうしたらかれらに本当の幸せをもたらすことができるでしょう?
――(中略)――何がむずかしいといって、改革ほどむずかしいものはありません」

 民主主義は、国民ひとりひとりが主体となって国を動かしていく政治形態のことであるが、ほとんどの国では、国民が政治家という代表者を選出するという方法をとっている。そして政治家の役割は、本来は千差万別な国民の意見をひとつにまとめるということにある。法というのは、かならず一つでなければならない。もともと多であるものを一にするという無理を、政治家は実施しなければならないというところに、民主主義の難しさはある。誰もが幸せになれる国、という理想――子どもたちのための幸せを実現させるという「理想」を性急にもとめたマットの改革を書いた本書は、児童書ではあるが、じつは大人にこそ読まれるべき作品であるのかもしれない、と思えるほど深いテーマを有している。(2015.02.03)

ホームへ