【新潮社】
『きことわ』

朝吹真理子著 
第144回芥川賞受賞作 



 過去の記憶について、その人にとって良かったことばかり憶えていられるのであればいいのだが、むしろ悪い記憶、思い出したくもない嫌な記憶のほうが、単純に「楽しい」で終わってしまう思い出よりも、より鮮明に憶えていたりするものだ。だが、そうした当人の個人的感情に関係なく、過去の記憶は自分というまぎれもない個が、過去の自分自身と間違いなくつながっているという唯一の証明と言っていいものである。

 今の自分と、過去の自分が同一人物であるということ――過去の体験を積み重ねていくことで、今の自分があるという認識は、自分が自分であるための重要な要素のひとつだ。だが、この過去の記憶というものは、多分に主観が入り混じり、年月を経るにつれて風化し、曖昧な部分が多くなっていく。とくに写真やビデオといった記録もなく、また同じ体験をしたはずの人間がいなかったり、場所そのものが失われてしまっている場合、その過去の出来事をたしかな事実として証明するのは自分のなかの記憶だけとなってしまう。そうやって過去の記憶が少しずつ劣化していく――過去の真実から少しずつ遠ざかっていくことが、あるいは人として生きていくということであるのかもしれないが、それが唯一の真実だと信じてしまうのは、人としては少しばかり寂しいことでもある。

 本書『きことわ』のことを、何より言葉で評するという行為自体、あるいは本書の意図から外れることなのかもしれない。というのも、本書のあらすじそのものは非常に単純で、かつて夏休みの一時期を葉山の別荘で過ごしたふたりの少女が、その別荘の引き払いを機に、二十五年ぶりに同じ場所で再会をはたす、というだけのものである。貴子はその別荘の持ち主の娘で、永遠子はその別荘の管理人の娘。七歳違いのふたりは、貴子の母親である春子が死ぬまでの数年間、葉山の別荘で同じ夏の時間を共有する仲だったものの、その後はとくに連絡を取り合うこともなく、お互いに今になるまで特別に思い出すこともなかった。

 話の内容自体は単純であり、また本書のなかで展開していくことも、とりたてて大きな事件が起こるわけでも、過去の記憶に秘密めいたことがあったわけでもなく、淡々とした流れで進んでいく。だが、貴子と永遠子というふたりの関係について考えると、とたんにそれを言い表す適切な言葉を失い、茫然としてしまう。同年代のクラスメイトでもなければ、親戚というわけでも、趣味や習い事を共有している仲というわけでもない。友達というには年が離れすぎているし、疑似的な姉妹というほどお互いの立場がはっきりしているわけでもない。それは、まさに貴子と永遠子という以外に説明のしようがない関係である。そして、そんなふうに考えたとき、本書のタイトルとなっている『きことわ』が、貴子と永遠子というふたりの人間のことを指すのではなく、ふたりの間にあった関係性そのものを指していることに気づく。

 貴子だけでは成立しない。永遠子だけでも成立しない。ふたりが葉山の別荘で一緒にいるときにだけ成立する、きわめて特殊な、しかしふたりにとってはそれがごく自然なものとして受け止められていた関係――そんな、単純な言葉では表現しきれない関係性を描いたものが、本書ということである。そして、そうした視点から本書をあらためてとらえていくと、本書の設定のなかにじつに絶妙なバランスがはたらいていることが見えてくる。たとえば、七歳差というふたりの年齢差についても、高校一年と小学三年というふうにとらえると、赤の他人としては共通の話題もなく、なかなか関係性を持続しづらいものがあるが、それでも子どもと大人との境目という意味では、ぎりぎりひとくくりにできる年齢差だと言える。おそらく、これ以上でも、これ以下でも、本書のような関係は築きえなかったであろうという年齢設定だ。

 本書のなかで、ふたりの過去の記憶を補完するものとして、写真やビデオといった媒体が注意深く避けられているのも、この作品を成立させているバランスのひとつとなっている。その代わりとして機能しているのが、ふたりの過去の記憶という媒体だ。だが、本書のなかにおける過去の記憶というのは、かならずしも物事の真実をとらえるものではなく、また読者に過去の出来事を正確に伝えることを意図してもいない。それゆえに、本書を読み進めていくと、しばしば過去と現在の境界があいまいとなる瞬間が訪れる。それはときに、永遠子の夢という形で引き起こされることもあれば、時の止まったかのような葉山の別荘のなかで、ふいに時間の感覚が乖離するという形のときもある。結果として、二十五年という時間的な距離にもかかわらず、まるで昨日の続きであるかのように、ふたりは再会をはたす。

 永遠子は夢をみる。
 貴子は夢をみない。

 本書冒頭の言葉が象徴するように、永遠子はおもに夢のなかで過去の記憶に触れ、貴子は逆に、現実で目にするさまざまなものがきっかけとなって、過去の記憶を呼び起こしていく。それはどちらも、まぎれもなく過去に体験した出来事でありながら、同時にそれをたしかめるすべがない、という意味で偽の記憶という可能性から永遠に逃れることができない。じっさい、ふたりのあいだで記憶の一部が微妙に食い違っていたりすることがあるのだが、そのことについて、どちらが正しいことなのかを追究するようなことはない。そうした枠を取り払っていくことで展開していく独特の世界観では、ときにカップヌードルに湯を注いで待つ三分間で、何億年という時間を過去や未来へと跳躍することさえ――それこそ人が想像のなかでそうするように――起こりえる。起こりえると思わせるような世界が、本書ではたしかに構築されている。

 儚く、頼りなく、そしてときに真実からも遠ざかってしまう人の記憶――だが、そんな曖昧さもふくめた私たちの記憶のなかには、あるいは当の本人でさえ思いもかけない、意想外な世界が広がっているのかもしれない。(2011.09.14)

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