【文藝春秋】
『消し屋A』

ヒキタクニオ著 



 プロとアマチュアとの違いが何かと問われれば、私は迷わず「自分のもつ技術で食べていけるかどうか」と答える。もちろん、そこに才能や努力といった要素が必要なのは言うまでもないが、たとえどれだけ高度な技術をもっていたとしても、たとえどれだけ努力を重ねたとしても、それで金を稼ぐことができなければ、その人はプロとは言えない。そしてプロとして金を要求するからには、その金に見合った仕事をしなければならないし、そのためにはどのような条件であろうと実力を充分に発揮できるよう、自己管理を徹底していなければならない。そういう意味で、プロの世界がこのうえなく厳しいというのは、まぎれもない事実である。そしてそれゆえに、本物のプロの仕事というのは、その業種に関係なく、見る者に何らかの感情を起こさずにはいられないものがある。

 たとえば、私はインターネット上で本の書評を書いており、過去に何度か「プロの方ですか」と問われたことがあるが、自分の書く書評がほとんど金銭と結びついていないという意味では、私はプロではないし、今後もプロになることはないだろうと思っている。私にとって書評を書くという行為は、あくまで読書という趣味の一環であり、そこに発生するのは個人的な責任のみである。だが、もしプロになるとすれば、そこには個人のレベルでは済まされない責任が発生することになる。よく、本当に好きなことを仕事にするべきではない、という話を聞くが、それは個人の意思とは無関係に、仕事としてあたえられたことをきっちりとこなしていかなければならないことへの重圧が大きく関係している。その人が本来もっていた「好きだ」という気持ちさえへし折りかねないものとの絶え間なき戦い――その戦いに挑み、ねじふせていくだけの矜持をもちつづけることのできる者だけが、プロという称号を手にすることができるのだ。

「ほんとに、おまえは『消し屋A』やね」
「何ですか、Aって」
「仮名のAってことだよ。少年Aとか仮名A氏とか言うやろう。実体がよう見えんってこったい」

 本書『消し屋A』には、そのタイトルにもあるとおり「消し屋」という職業を生業とする男が登場する。依頼を受け、金を受けとってターゲットをこの世から消す――「消し屋」とはいわゆる殺し屋のことであるが、彼はターゲットとなった人間をただ殺すだけではなく、事件性すらも消してしまう。社会的に反響の大きい事件を解決したがる警察の性質を逆手にとり、殺した人間をなんでもない事件のなかにまぎれこませ、警察の追及を断ち切ってしまうのだ。自分の戸籍を消し、警察の功名心を消し、殺した人間の、この世で生きてきた痕跡さえも消してしまう――幸三という名前も、当然のことながら偽の戸籍でしかないのだが、その戸籍とともに博多に入った「消し屋」の幸三は、福岡の組織暴力団の頭である渡辺克己から「消し」の依頼を受ける。だが、その内容はこれまで幸三が受けてきた依頼とはかなり毛色の異なるものだった。

 野球賭博の利権を狙う関西系の暴力団への示威行為として、福岡ダイエーホークスの大黒柱、キャッチャーの真壁誠を試合の間だけ消してほしい――それは、何より野球を愛する真壁を懐柔し、八百長に加担させることを意味している。はたして幸三は、どのようにして真壁の「消し」を実現させるのか、という点が中心となって展開していく本書であるが、じつのところ、本書の依頼は「消し屋」としての魅力を充分に生かせる設定になっていない、というのが正直なところである。じっさい、依頼人である渡辺克己が求めているのは関西の暴力団への示威行為であって、真壁の「消し」が必要条件であるという要素が高いというわけでもなく、しかもじっさいに幸三がやろうとしているのは真壁の弱みを探し出すことであって、真壁を消すことと直接結びつくものでさえない。もちろん、そのために彼は「消し」の技術を駆使しており、そういう意味ではたしかに幸三は「消し屋」としてのテクニックを生かしてはいるが、それだけであれば、何も「消し屋」である必要はない、ということになってしまう。探偵や興信所の人間、あるいは元刑事といった人物であっても、問題ないはずなのだ。

 では、なぜあえて「消し屋」などという職業を物語の主役として選択したのか、ということを考えたとき、読者は「消し屋」の幸三にかぎらず、本書に登場する主要人物たちが、いずれもその世界のプロフェッショナルに属する人間であることに気づくことになる。プロのヤクザ、プロのゲイ、プロの「消し屋」、そしてプロの野球選手――ここで私に言えるのは、著者はただたんに「消し屋」の活躍を書きたかったわけではなく、プロどうしの矜持のぶつかりあいを書きたかったのではないか、ということである。それも、「消し屋」の幸三を裏の世界のプロとするなら、真壁は表の世界のプロであり、このふたりを対極に位置づけたうえで、お互いのプロとしての矜持を描くことが、結果としてプロの世界に生きる人間の生き様を描くことへとつながっていくことにもなる。

 物語のなかで幸三自身が語っているように、今回の依頼はそれまでの幸三の仕事とくらべるとかなり勝手の違うものがあり、幸三自身も困惑しているところがある。だが、彼はその気になればヤクザの事務所にひそかにもぐりこみ、頭を殺すことさえもやってのける「消し屋」のプロであり、一度仕事を引き受けたからには、かならず目的を達成しなければならない。そしてそれは、プロ野球選手である真壁も同様である。本書のなかには、幸三の視点による物語の流れとはべつに、真壁の視点による物語の流れも組み込まれており、そのどちらも主役級のあつかいとなっているのだが、本書が「消し屋」の物語ではなく、プロたちの物語であるとすれば、その構図もおおいに納得できるものがある。

 プロ野球選手になる者の心には、多かれ少なかれ野球というスポーツに対する思い入れ――純粋に野球が好きだという気持ちがあるが、人殺しという家業をしている者のなかに、殺人が好きだという気持ちは、おそらく持ち合わせてはいないだろう。だが、野球にしろ殺人にしろ、たんに金だけの問題でプロフェッショナルになるわけではないこともたしかだ。幸三と真壁、同じプロでありながら正反対の世界で生きているふたりであるが、そんなプロの人たちの姿をまのあたりにすると、そういうことにあらためて思いを寄せずにはいられなくなる。(2006.04.28)

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