【文藝春秋】
『クチュクチュバーン』

吉村萬壱著 
第92回文學界新人賞受賞作 

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 クチュクチュと身を捩らせた集合体は、そのまま瞬時にして極小化した後やがてバァァァーンと大爆発した。

 人間が人間でありつづけるための条件とは何か、という命題に簡潔に答えるのは難しい。なぜなら、その命題が指し示す条件をはっきりさせるためには、まず「人間とは何か」という根本的な命題を解決させる必要があるのだが、それはとくに決められた前提条件がないかぎり、それこそ生物学的観点から宗教学的観点にいたるまで、さまざまな分野からのアプローチを許してしまうたぐいの命題であるからである。その問いを発した質問者が、何を意図しているのかがわからないかぎり、答えは無数に出てくることになるし、それらの答えをどれだけ並べてみたとしても、質問者が満足できなければ何の意味もない、ということになる。

 ふだん私たちが生きていくうえで、「自分が人間である」ということを、とくに意識することはない。それは私たちにとってはあまりにあたり前のことであって、わざわざ問題視する必要も感じないからに他ならないのだが、たとえば飯田譲治・梓河人両人による『アナザヘヴン』のような、吐き気をもよおす猟奇殺人をまのあたりにしたとき、人々はふとそうした命題にとりつかれてしまうことがある。自分と同じ人間であるにもかかわらず、自分のもつ常識や良心といった心のあり方ではまったく理解できない言動をとる者たちの存在は、必然的に彼らを自身との比較対照に据え、自分と彼とではどこがどう違うのか、はっきりさせておきたいという欲求を駆りたてる。

 言ってみれば、猟奇殺人犯の存在は、私たちが揺るぎないと思い込んでいる「人間」であるための条件に揺さぶりをかけるものであり、それゆえに私たちは上述のような命題に頭をめぐらせることになるのだが、本書『クチュクチュバーン』は、まさに猟奇殺人犯のような役割を読者に対して担っている作品ということになる。ただし、その破壊力は猟奇殺人犯の比ではない。しりあがり寿の、いっけんコミカルな表紙に惑わされると、とんでもない目にあうので注意が必要だ。

 本書には表題作のほか、『人間離れ』という作品が収められているが、いずれの物語世界でも、人間が人間らしさを保つのがひどく困難な状況にある。『クチュクチュバーン』では、あらゆる人間が徐々にデタラメな姿かたちに変容していくという奇怪な同化作用に蝕まれており、『人間離れ』では、突如空から降ってきた大量の不気味な化け物によって、食物連鎖の頂点から引きずりおろされた人間たちの姿が描かれているが、そこにはおよそ人間らしさといったものは欠片もなく、野良犬のように人間の死体を食らい、自分の子どもを食らい、化け物の糞にむさぼりつき、そして自身の生存のために同じ人間を平気で殺していく、かつては人間だったモノで溢れかえっているのだ。

 世界そのものが登場人物たちの人間らしさを拒絶しているため、必然的に物語のテーマも人間らしさから逸脱していくことになる。そこには、たとえば仲間や家族のために命をかける、といった美談もなければ、このデタラメな世界をなんとかしようと奔走したり、あるいは人間らしさを保とうと努力したりする人類の知恵もなく、あるいはあったとしても、自身に否応なくもたらされる大きな力のまえに、あっというまに飲み込まれて人間らしさを失ってしまったり、そうした努力を嘲笑うかのように、無慈悲な化け物たちに殺戮されていってしまう。登場人物のもつ名前にすらたいした意味もなく、人間としての救いなどそもそも歯牙にもかけられない本書であるが、人間の体がデタラメな形態へと変化していき、突拍子もない行動をとったり、化け物のまえでおよそ意味があるとは思えない直腸出しをおこなったりする姿は、私たちが信じて疑わない人間の姿からあまりにもかけ離れたものであるがゆえに、じつはかなりユーモラスで笑えてしまったりする。

 人間の「自我」は、その言葉を意識した瞬間から生物学的な「人間」という物体からは切り離された存在と化し、それゆえに「自我」はときに、人間の生物学的欲求に対してさまざまな複雑な葛藤を生じさせたりするが、そもそも人間の人間らしさを拒絶した本書のなかにあるのは、そういう意味では純粋に生物学的な「ヒト」の姿であり、そしてそうである以上、たとえばその姿かたちが私たちのなじみのある形態をとっていなかったとしても、たいした問題ではない、ということになってくる。もし本書のなかにテーマがあるとすれば、おそらくそうした部分から見えてくる何かではないだろうか。

「人間が裸の猿みたいな格好している意味は別にないしね。こんな虫でも、一向に不都合はない。泣いて笑って殺し合う。それだけだ」

 一観察者として生き物の生態に目を向けたときに、その合理性に感嘆しながらも、いっぽうでは相当に奇妙だったりおかしな印象をもってしまったりすることがあるように、私たち人間の生態についても、もし自分たちの意識を離れた視線を獲得して眺めてみたときに、あるいはとんでもなく奇妙奇天烈な行動をとる生物として見えてしまうのではないか――人間という生き物について、既存の価値観の支配する世界の外からあらためて捉えなおすための試みとして、本書がどの程度成功しているかはわからないが、少なくとも本書の存在が、私たちがとらわれている「人間」というものに大きな疑問を投げかけるものであることだけは、間違いのない事実である。(2005.04.10)

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