【講談社】
『霞町物語』

浅田次郎著 



 年に二度、盆と正月に、私は実家である北陸の温泉街に帰省しているが、そのたびに、街のどこかが必ずと言っていいほど変わっていることに気づいて、ずいぶん驚かされてしまう。昨年末の帰省のときには、最寄駅から外に出た瞬間、目の前に見たこともないようなロータリーが広がり、横には郊外型の巨大なスーパーが聳えていて、一瞬、降りる駅を間違えてしまったかと思ったくらいの変貌を遂げていた。私がよく知っている、記憶のなかの駅は、わずかな土産物屋と、小さなバス乗り場とタクシー乗り場があるだけの、周囲に広がるだだっぴろい田んぼのなかにポツンと立っている駅であって、けっして今の、見違えるほど新しくなった駅の姿ではないのだ。

 世の中の変化がこれほど激しくなったのは、いったいいつの頃からだろうか。
 それはなにも、馴染みだった風景ばかりではない。それまでけっして変わらないと無条件に信じ込んでいた価値観や、人の心もまた、あざ笑うかのように変わっていく。時の流れはけっしてとどまることはなく、そうである以上、この世に変わらないものなど存在しないこと、また、より良い方向に変わっていかなければならないことは、頭では理解できるのだが、それでも、帰省するたびにそれまであったはずのものが消えてしまっている、私の生まれ育った街並をまのあたりにするときに、まるで自分の体の一部が切り取られてしまったかのような痛みを覚えるのは、どういうことなのだろうか。

 霞町、という名の町のことをご存知だろうか。今では西麻布と名前を変えた、地図からも消滅してしまったその町は、たんなる過去の町の名前ではなく、同じ土地でありながら、「霞町」という名前とともにそこから消えてしまった「何か」を象徴する言葉でもある。本書『霞町物語』は、そんな「何か」を描いた物語だと言うことができるだろう。今はもう存在しないけど、けっして夢でも幻でもなく、そこにたしかにあったのだ、という証拠として。

 オーティス・レディングに代表されるリズム・アンド・ブルースが流れ、髪をポマードでべったりと固めたリーゼントの男たちが、エンジンだけをチューンした国産車を乗り回し、若者たちがショット・バーやディスコで踊り狂っていた時代――今はもう時代遅れになりつつある写真館の一人息子である「僕」もまた、そんな若者たちのひとりとして、恋をしたり友達と馬鹿をやったりして青春を謳歌していた……などと書くと、あるいは未熟な若者を主人公にした、いかにも青臭い青春小説を思い浮かべる方もいるかもしれない。
 ある意味で、その考えは正しい。本書に収められている短編のうち、表題にもなっている「霞町物語」や「夕暮れ随道」、あるいは「グッバイ・Drハリー」などは、「僕」中心にした若者たちの、読んでいるこちらが照れくさくなるような恋愛や情熱を描いた物語である。一九六〇年代――大学では大規模な学生闘争が本格化していたものの、高度経済成長まっただなかに生まれ育った高校生たちはおおむね裕福だった時代の雰囲気を漂わせつつ、霞町という、その時代の一般的な流行とは少し違った、独自のスタイルを守りつづける「原住民」たる「僕」たちの姿は、まさに青春まっしぐらの若者の象徴ではあるが、重要なのは、彼らの象徴しているのはその時代そのものではなく、かつては存在していた「霞町」という場で育った、という限定付き若者の象徴である、ということだ。

 以前に読んだ『プリズンホテル』でも感じたことだが、浅田次郎はつくづく「場」の小説家だという気がする。『プリズンホテル』の「奥湯本あじさいホテル」、『鉄道員』の古びた地方の駅、短編集などでよく登場する銭湯、そして本書の霞町――それらの「場」に共通するのは、激しい変化のただなかにあって、今という時代のなかで滅びようとしている「古き良きもの」を頑固に持ちつづけている場所だということである。

 実際、「僕」を含む霞町の若者たちは、外から流れ込んでくる若者たちに常に対抗心を抱いていたし、「僕」の家族である伊能家の営む写真館は、すでにカメラが家庭にまで普及している時代であるにもかかわらず、耄碌しながらも頑固で意地っ張りな祖父の一存で、ぜんぜん客の来ない店を開けつづけている。そこには、浅草といった下町に代表されるような「生粋の江戸っ子」とは異なる、しかし間違いなく頑固一徹で情に脆い江戸っ子気質を持った、あたたかな雰囲気がある。

 あのころの六本木の風景を、記憶にとどめている人は、もうそうはいないだろう。
 今ではすっかり渋谷や赤坂や新橋の盛り場と光のパイプでつながれてしまったけれども、四半世紀以上も前の六本木は、闇の中の食卓にぽつんと飾られた、花束のような街だった。交差点を五百メートルも離れれば、米軍キャンプや邸宅の木叢が、深い眠りのように街の灯を蓋ってしまった。

 その時代の特色をよく映し出していながら、とくに誰かに注目されることもなく、ふと気がつくと泡のように消えてしまっているもの――私たちの世界は、そうしたものの積み重ねによってできているのではないか、と思うことがある。本書の中心人物である「僕」の家が写真館だという設定は、ある意味でひどく象徴的なことだ。なぜなら、写真というのは、過ぎ去ってしまう時間をとどめおくための手段であり、過去という名の「思い出」を描きつづける本書は、まさに「霞町」という名のアルバムををつくることと同等なものであるからだ。

 本書の中の短編「青い火花」は、主として「僕」の父や祖父の写真に関するエピソードを綴ったものであるが、その中で、祖父が撮ってくれた写真の中の小さな自分を見つめながら、克明な成長の記録を祖父から与えられて幸せだったと思うシーンがある。自分が幸せだったと迷わず言うことができる「僕」の家庭環境が、うらやましいほど輝いて見えるのは、はたして私だけだろうか。

 東京で一人暮らしをするようになって、自分の写真を撮る機会がずいぶんと減ってしまったが、一度、誰かに撮ってもらいたいと思っているものがある。夢中になって本を読んでいる私の写真――私にとってはごく普通の日常の姿であるそうした積み重ねが人生だとするなら、その一部分を切り取って、たしかに自分はこんなふうに生きたのだという「思い出」にしてみたい。
 そう思ったとき、私の気持ちはたしかに、著者の心と同化していたと言える。著者もまた、同じような気持ちで本書『霞町物語』を書いたに違いないのだから。(2001.04.11)

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