【講談社】
『幽(かすか)』

松浦寿輝著 



 あなたは「自分は何のために生きているのか」ということを考えたことがあるだろうか。家族のため、愛する者のため、仕事のため、名誉のため、あるいは自分自身の純粋な欲望のため――人間というのは、生きるというごく自然な行為に対してなんらかの理由づけを必要とするやっかいな生き物であり、その都度その都度それらしい理由を見つけ、自分自身を納得させてふたたび毎日の繰り返しを生きていく。だが、たとえどのような理由をつけたところで、この現世に生を受けたすべての生命が、その最期に迎えることになるのが死という絶対的なものである以上、どれほどの偉業を成しえたとしてもまったくの徒労、無駄であり、であるなら、生きること自体にじつは何の意味もないのではないか、と考える者がいたとしても、別に不思議なことではないだろう。

 戦後日本の驚異的な復興の原動力となった、経済的な豊かさへの願望は、バブルの崩壊によって文字どおり泡となって消えてしまった。自らがその一員として守るべき古くからの共同体も解体の危機に瀕しており、急激な核家族化の波は、私たちを自らのルーツであるはずの先祖とのつながりから断ち切る結果となった。そして、その家族という単位もまたさまざまな問題を抱え、そのありようがあらためて問いなおされてきているし、宗教への救いも、世紀末への淡い期待もついえてしまって久しい。21世紀という新たな時代を迎え、しかしその新たな時代がかつて夢にみていた輝かしい未来の姿とは、似ても似つかぬありさまであることにとっくに気がついている私たちは今、あるいは「生きる」ということ自体がひどく困難な時代を生きていかなければならなくなっているのかもしれない。

 本書『幽』は表題作のほかに3つの短編を収めた一冊であるが、それぞれの作品に登場する男たちは共通して、ある事情によってそれまで堅実に歩んできた人生の正統なレールから足を踏み外し、築いてきたもののほとんどすべてをあっけなく失ってしまった状態にある。

『無縁』では、そもそも家族とのつながりも長く無きに等しい、根無し草のような生活をしてきた男が、それまで働いてきたキャバレーをやめ、いっしょに暮らしてきた女にも逃げられ、いよいよ人とのつながりのないところに身を置きながら、ただ惰眠をむさぼっている。『ふるえる水滴の奏でるカデンツァ』に出てくる圭一は、バブル末期に手を出した投機の失敗によって莫大な借金を抱え、しかも恋人だった女の妹である香代子と恋に落ち、逃げるようにしてタイのバンコクにとった安宿で、この先の展望もなくただ愛し合うばかりである。『シャンチーの宵』の北岡は商売こそそれなりにうまくいっているようだが、ともすると昔を回顧し、今の仕事そのものに嫌気がさしている自分の内なる衝動に気づいているし、『幽』の伽村にいたっては、娘の交通事故死、妻との離婚、そして自身も大病の果てに職も失い、あとはゆるやかにやって来る死を待つばかりという生活をおくっているのだ。

 こんなふうに生きているかぎり世間の人にとっては伽村は存在していないも同然だろう――(中略)――東京もこういう端っこの方の川のきわまで行けば生きているかいないか定かでないような幽き姿をさらしている連中があまり他人の目に触れないように気をつけながら静かに住んでいるとしてもいっこうに不思議ではない。

(『幽』より)

 それまで何かに向かってがむしゃらに突っ走ってきた者が不意に立ち止まり、後ろを振り返る機会を得たとき、人は「なんのために生きるのか」ということに思いをはせるものだ。ましてや本書に登場する男たちは、社会におけるさまざまな肩書きを失い、本当の意味で身ひとつしかない状態にある。彼らは否応無しに、ありのままの――不恰好な肉体と、そんな肉体にとらわれた意識をもつ自分の姿をまのあたりにせざるをえない。

「まぎれもない自分自身」という言葉がある。私も自身の書評でよく使ってきたフレーズでもある。だが、その「まぎれもない自分自身」の姿をしっかりと見据えることができる者が、いったいどれほどいるのだろうか、ということを考える。私も含めた大抵の人間は、自分自身ではなく、自分をとりまくさまざまな関係によって自分をとらえている。そして以前であれば、そうした関係は――それが家柄であれ、血筋であれ、あるいは拠るべき集団や宗教であれ――良くも悪くも強固であり、本人に代わってアイデンティティを確立する役目をはたしていた。
 だが、現在私たちの周辺にあるあらゆる関係が、当人に満足なアイデンティティを確立してくれるほど強固なものではなくなっている、という事実がある。「自分探し」「ひきこもり」という言葉が世の中に広がりはじめたのも、こうした事実とけっして無関係ではあるまい。どちらも既存の関係に頼らない方法で、自身のアイデンティティを構築しようと模索している私たちの心の、別の側面を表わしているにすぎないのだ。

 さて、本書に収録されている作品について、書かれた順番に並べてみると、『シャンチーの宵』『ふるえる水滴の奏でるカデンツァ』『無縁』、そして『幽』という順番になる。『シャンチーの宵』では、今の自分の立場に漠然とした不安――このまま何の変化もなく生きて死んでいくのか、という不安を抱く北岡に対して、老人は関係を断ち切りたい奴を殺してやろうか、と持ちかけてくる。『ふるえる水滴の奏でるカデンツァ』の圭一になると、すでに彼の周囲にあった人間関係はほとんど断ち切られており、ただひとり、片腕のない香代子とのみ、濃密すぎるほどの強い関係で結ばれている。『無縁』の男はそもそも他人との縁が薄い男で、生と死のぎりぎりの境に――眠ることと殺すことに快楽を見出そうとする。そして『幽』の伽村になると、そうした性愛や殺人といった血なまぐさい、どろどろとした関係そのものから一歩引いた、精神的ともいうべき不思議な境地に達しているように見える。これまでの著者の作品を大きく特徴づける要素として「女」と「水」があるが、これまで分かちがたくむすびついていたこのふたつの要素が、『幽』にいたってついにそれぞれが分離し、本来のあるべき姿として読者に提示されている点で、この『幽』は他の作品とは一線を画した存在となっている。

 人間という業深い生き物として荒々しく、華やかに、自分の生を主張して生きていく。おそらくそれが誰もが自身の内に見る「まぎれもない自分」の姿だろうとも思う。だが、『幽』のように、ことさらに自己主張することなく、ただ生あるものとして心静かにその生を享受するという生きかたも、たしかに存在する。自分は自分であると無理に定めるのではない、定まらないというひとつの自己主張――そんな時代の黄昏を思わせるような生きかたに、あなたはどのような感想を持たれるだろうか。(2003.04.27)

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