【講談社】
『かさぶた式部考/常陸坊海尊』

秋元松代著 



 何かに執着しつづけること、ある考えにこだわりつづけること、誰かを想い焦がれること――人としてこの世を生きるということは、けっきょくのところ何らかの欲望をもちつづけることとつながってくるのではないか、とふと考えることがある。勉強をすることも、仕事に就くことも、誰かに恋をすることも、子どもたちの父親や母親となることも、その根底にあるのはある対象への執着心だ。それはときに恋と呼ばれ、ときに好奇心と呼ばれることもあるが、何かに対して自分の心が強く惹かれるという一点において、それらの感情は共通のものをもっている。そしてそれは、ときに人間のこのうえない醜さを露呈することもあれば、人間のこのうえない高貴さや尊厳をたもつ力としても作用する。

 私には宗教や信仰心というものについて、くわしく語るだけのものはもっていないし、またこの場でそのことを中心に語るつもりもない。だが、宗教というものがもつイメージのひとつとして、執着や欲望といったいかにも人間くさい感情からの救いや、それらを超越していくことへの傾向が見られるように思うのは私だけだろうか。キリスト教における「原罪」の考えや、仏教における「解脱」といったものは、人間が人間であるがゆえにもたざるを得ないさまざまなしがらみを、償うべきもの、脱ぎ捨てるべきものとしてとらえているように思えるのだが、それがどれだけ困難な道のりであるかは、想像に難くない。それはある意味、人間であることそのものを捨てることでもあるのだ。

 今回紹介する本書『かさぶた式部考/常陸坊海尊』は、いずれも戯曲形式で書かれた物語であるが、この作品を読み終えて私がまず思ったのは、何かに執着して生きる人たちの、愚かしくも強かなその生き様ということだ。そして同時に考えたのは、この戯曲が演劇として上演されたときに、それぞれの俳優たちははたして、どのような思いを込めて登場人物を演じることになるのだろうか、という点でもある。

 『かさぶた式部考』も『常陸坊海尊』も、いずれも日本の民間伝承を物語の骨子としている。前者は平安中期の歌人和泉式部の伝説であり、後者は源義経の家来であったとされる常陸坊海尊の伝説であるが、本戯曲内における彼らの伝説は、いっぽうで多くの信者から信仰の対象とされるほどの神聖さをもちながら、そのいっぽうでその神聖さ、徳の高さがきわめて俗世的な因縁によって生じたものであるという共通点をもつ。和泉式部の場合、娘を病で亡くした嘆きの深さゆえに、その弔いのために諸国遍歴をはじめたという由来があり、常陸坊海尊の場合、義経の家来でありながら彼を見捨てて逃げたという弱さが強調されている。そしてその人間としての弱さが、彼らをして人々の苦しみや病、罪や咎といった負の要素を代わりに引き受けるという理屈を成立させている。

 『かさぶた式部考』に登場する豊市という男は、炭坑の事故で二酸化炭素中毒となり、頭をやられたという設定である。そしてそれゆえに、人間としてはまったく表裏のない、純真な子どものような男という位置づけとなっているのだが、より注目すべきなのは、豊市を中心にして絡んでくる女性たちの位置づけである。豊市の母である伊佐、妻のてるえ、そして和泉教会が祭り上げている、和泉式部の子孫だとされる智修尼――いずれも母子、夫婦、そして男女という関係で、それぞれが豊市に執着し、またその関係に縛られてもいる。

 とくに智修尼については、多くの信者たちの信仰の中心に据えられている、という意味で、彼女はかつての和泉式部の伝承と同じように、人々の負の要素のいっさいを請け負っていると言える。彼女は戯曲のなかで、そうした関係について「虚しい」という心情を吐露するが、そうした人としての弱さを見せることができるのは、ある意味で人間であることから遠い場所にいる豊市だけであり、それゆえに智修尼と豊市との関係というのは、ことのほか特異なものとして私たちの目に映る。いっぽうがいっぽうを不当に支配していながら、どちらもお互いに依存しあっているような関係は、『常陸坊海尊』における雪乃と啓太の関係にも見られるものであるが、いずれの戯曲においても、このような人間関係がことのほか強調されてくるような構成をとっている。

 智修尼の美しさはときに妖艶という言葉がふさわしく、信者たちと九州を旅しながら、ときに男を色気でたぶらかすという、きわめて人間的、肉体的な一面があるのに、彼女を奉る宗教の信者たちにとって、彼女はあくまで信仰の対象であって、人間的な部分は表面上、無視されている。こうした装置を経て浮かび上がってくる智修尼と豊市の関係は、まさに人間がもつもっとも醜い部分と、もっとも美しい部分を同時に見せつけるものだ。そしてこうした一面は、じつは彼らだけでなく、和泉教会の信者たちのなかにも、多かれ少なかれ含まれている。理不尽な出来事によって当然あるはずであった日常を奪われた悲しみに打ちひしがれながらも、そのいっぽうで何かを拠り所にすることで強かな生命力を見せつける登場人物たち――もし本戯曲のなかで特記すべき特長があるとすれば、いずれの登場人物についても、けっしてわかりやすい役割分担をさせず、むしろ複雑でややこしい人間の本質を、ありのままに演じさせようとする点であろう。

 『常陸坊海尊』については、その役割分担がいささか明確なところがある。いっぽうで何かにすがらずにはいられない子どもがいて、いっぽうで何かを守らなければと願う老婆がいる。太平洋戦争末期という設定のなかで、家族を失って地方に疎開してきた啓太の不幸は、まるで蜘蛛の巣に絡みつかれるように深みにはまっていくことになるのだが、ここでもその信仰の対象というべき雪乃にかんしては、その人格が無視されるような形で物語が進んでいく。この戯曲のなかで強調されているのは、戦争という要素もふくめ、私たちがふだんあたり前のものとして享受している日常は、ちょっとしたことで容易に崩れ去ってしまうという点である。そして、一度崩れてしまったものへの執着が、それぞれの登場人物たちの未来を決定していく。

 和泉式部も常陸坊海尊も、本戯曲のなかでは非常に人間的な要素をもつものとして描かれている。だが、それはたんに彼らが人間であったときの物語を語るからではなく、むしろ伝説となった彼らに執着する人々の姿の生々しさから来るものだ。そうした人々の心に思いがけず巻き込まれた人たち、自身の意思とは無関係に祭り上げられた人たちが入り混じって、この戯曲ははじめて、まぎれもない人間の生きる混沌とした世界を生み出していくのかもしれない。(2008.03.11)

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