【新潮社】
『からくりからくさ』

梨木香歩著 



 ときどき、自分がまだ幼かった頃の記憶がフラッシュバックのようによみがえることがある。自分が住んでいた家のこと、狭かった自分の部屋のこと、大雪と除雪車の音と屋根の雪降ろし、両親とひとりの兄、ひと山越えたところにあった畑のこと、そこで栽培していた苺や西瓜の味、そこを越えてさらに奥まったところにある、父方の祖父母の家、寝室の暗がり、今は使われていない囲炉裏と、薪ストーブ、祖母が焼いてくれたピーナッツ入りのお餅のこと――それらの大半は、すでに永遠に失われて久しいものだ。そして、そんな過去の記憶と思いがけず対面するたびに、自分はひょっとして恐ろしく孤独なのではないか、という思いにとらわれてしまう。それは、故郷から遠く離れたところで生活している者が一度は感じる郷愁に似てはいるが、ただ懐かしいというだけではなく、自分が自分でありつづけるために必要だったもの――自分のアイデンティティそのものを置き去りにしてしまったのではないか、という底知れぬ不安、心細さのようなものである。

 自分はいったい何のために生まれてきたのか、自分がこれから成すべきことは何なのか――それを探すために故郷を飛び出してきたはずなのに、なんてことはない、自分が後ろに置いてきたものの中にこそ、その答えがあるような気がしてならないのだ。親から子へ、さらに孫へとつながっていく、一連の時間の流れ、そしてその過程において伝えられていくもの――それは、けっして血筋によって縛られるということではなく、自分がこの世界に生を受けることになったルーツこそが、けっして変わらない、変えようのない自分のアイデンティティとして確かに存在する、という事実の認識にすぎない。

 そう、岩村蓉子にとってのりかさんが、そうであったように。

 本書『からくりからくさ』に登場するりかさんとは、蓉子が小さい頃に祖母からもらった市松人形の名前である。りかさんは人形だが命がある――少なくとも蓉子はそう信じていて、まるで生きた人間のようにりかさんに接し、りかさんの声に耳を傾けてきた。けっして構えることなく、周囲に自分を融け込ませ、ごく自然なこととして手にするものを慈しみ、育もうとする蓉子にとって、りかさんとの対話はけっして不思議なことではなかったのだ。

 きっかけは、祖母の死だった。「喪に服する」と宣言して、無人となった祖母の家にこもったりかさんだったが、四十九日を経て蓉子が迎えにきたとき、りかさんの命はその市松人形の中に宿ってはいなかった……。

 祖母の気配を色濃く残した古い家は、女子学生の下宿として貸し出されることになった。その下宿人のひとりとしてその家で暮らすことを決意した蓉子は、同じくその家にやってきたマーガレットや内山紀久、佐伯与希子、そして今はまだ覚醒していないりかさんとともに、新しい生活をはじめることになる。

 もともとひとつの家だったものを何人かで部屋を分け合って暮らす、というスタイルは、それぞれが完全に独立して生活を営むには不向きな環境である。本書においてもその例にもれず、祖母の家に集まった四人と一体は、まったくの他人でありながら、まるでそうなることが必然であるかのように多くの時間を共有し、家族でもルームメイトでもない不思議な関係を築きつつ、共同生活を営んでいく。もちろん、蓉子が植物を使った染色を生業にしており、彼女が色付けした糸を使って紀久が紬(絹織物)を、与希子がキリム(中近東の遊牧民の織物)を織る、という実質的な関係もあるにはあるが、四季折々に応じて染料のための草木を採る延長として、みんなで食用になりそうな雑草を摘んできては料理にためしてみたり、さらにはわざわざ庭を開墾して土をつくり、いろいろな植物を植えたりするという、半自給自足の共同体のような関係へとその様相を変えていくのである。

 誰もけっして強く自己主張することがない。何をしなければならないという約束事もなければ、守らなければならない決まり事や当番制度といったものもない。それでいて調和が保たれていて、みんなが満ち足りて、自分が本来いるべき場所であるかのように自然体でいられる空間――かつて、りかさんの秘密を共有していた祖母の思い出に溢れる家は、同じくりかさんの蓉子との関係を、それぞれの考え方で受け止めた女性達によって、奇しくも紀久の恋人である神崎が語ったように、凄い勢いで変わっていく世の中から、結界か何かで守られている居心地の良い場所になった。女性達がそれぞれの悲喜こもごもの感情をこめて、ただ静かに機を織る場所――そこは、基本的に、女性のための場所なのだ。神崎や竹田といった男性が、たまにその家に上がりこむことがあるが、そのたびに彼らの存在が、いかにもその場所にそぐわない、ぎこちないものとして感じるのは、おそらく私だけではあるまい。

 私たちの住む世界は、しばしば一枚の織物に例えられる。織物を構成する糸――けっして他の糸の色と混ざり合うことのない、それだけで厳然と存在しつづける糸の一本一本を人間に見立てたとき、縦糸は過去から連綿と続く血縁関係に、横糸はその時代時代において何らかの関係を持つことになる人と人との関係に置きかえることができるからであるが、それ以上に、織物の一連の模様が、ただ一本の糸が抜け落ちても完成しないところから、あらかじめ定められた運命を表現する比喩として使われることが多い。本書の面白いところは、蓉子たちの織り成す物語が、まさに一枚の完全な織物となっているところだろう。本書には、厳密な意味での主体となるべき人物はいない。それぞれの人物が、まるでそれだけで自己主張する糸のように、入れ替わり立ち替わり主体を交代し、それぞれの心情を語っていく。そして、彼女たちの共同生活の様子を横糸とするなら、りかさんを巡る過去のいきさつ――紀久の祖母の墓から出てきた、りかさんそっくりの人形、その人形をつくった澄月という人物のこと、彼がかつて赤光と呼ばれた能面職人であったこと、与希子の親戚たちに語り継がれているお蔓騒動のこと、そして、それらをつなぐ一本の糸こそが、織物の縦糸に他ならない。蓉子たちは、このりかさんの謎を明かにしようと動き回ることになるが、その複雑な縦糸を読み取ったとき、読者は、祖母の家に集った女性たちがけっして赤の他人というわけではなく、遠い過去においてなんらかの結びつきがあったということを理解することになるだろう。

 そして、『からくりからくさ』という名の織物の中心、すべてをひとつに結びつける糸が、他ならぬりかさんである、ということも。

 人の流れ、世界の流れ。それらは変容を経ながらも、けっして途切れることなく続いていく。女性たちの日常を描きながら、本書はその裏に、なんと壮大なメッセージを織りこむことに成功したのだろう、と思わずにはいられない。

 生きて生活していればそれだけで何かが伝わっていく。
 (中略)
 人はきっと、日常を生き抜くために生まれるのです。
 そしてそのことを伝えるために。

 私の祖父母は、私に何を伝えたのだろうか。私の両親は、私に何を伝えようとしているのだろうか。そして私自身は、これから誰に、何を伝えることになるのだろうか。(2000.10.20)

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