【東京創元社】
『カーラのゲーム』

ゴードン・スティーヴンズ著/藤倉秀彦訳 



 私たちの住むこの世界がどこかおかしい、狂っていると感じてしまうことは、残念なことにとても多い。たとえば、いじめの問題。学校や仕事場といった、およそ人が集まるところにはかならず何らかの形で生じてしまうこの問題を考えるとき、そこには強い者が弱い者をいじめ、弱い者がさらに弱い者をいじめるという構図が浮かび上がってくる。よく自然界の掟として「弱肉強食」といったことが言われるが、それはあくまで異なる種族どうしの食物連鎖の関係や、同族どうしにおけるボスの座をめぐる争い――しいては自分の種を未来に残していくという本能の争い――といった、純粋に強者と弱者が決定づけられるからこそ成立するたぐいのものであり、人間社会におけるいじめとは本質的に異なるものだと言える。なぜなら、いじめとは、強さの序列をはっきりさせるために行なわれるのではなく、一度決定づけられた強者と弱者の関係を維持し続けるために、繰り返されることを運命づけられたものであるからだ。つまり、強者は自分が強い者であるということを誇示するために弱い者をいじめるのであり、それは逆に言えば、弱い者をいじめることによってはじめて強者は強者たりえるという、序列の価値観の転倒が生じているということでもある。

 動物の群れにおいて一度ボスにのしあがったものは、その強さゆえに群れを守っていくという責任も同時に受け持つことになる。強さというのは本来、そういうものであるはずなのだが、人間世界におけるいじめの問題には、こうした強者が背負うべき責任の部分が抜け落ちてしまっているからこそタチの悪いものがある。そしていったんそうした法則が成り立ってしまうと、弱い者たちはその手段を問わず、強者へと成り上がるための力を求めることになってしまう。人間としての倫理や道徳よりも、金や権力といった力がモノを言い、一度手に入れた力を維持するために、さらに弱者を虐げることを容認する世界――本書『カーラのゲーム』という作品を読みおえた読者が、否応なくまのあたりにさせられるのは、こうした人間社会における不自然極まりない、狂った弱者と強者の関係性である。

 状況を変えるときが来たんだ、カーラ。すべてを変えるときが。世界に責任を取らせるときが。
 カーラのルールで、カーラのゲームで。

 物語はその冒頭から、乗客乗員130人を乗せたルフトハンザ航空3216便のハイジャックという、非常に緊迫した展開を迎えている。テロリストは男二人、女二人の計四人。その最終的な到着地点と思われるイギリスのヒースロー空港で、人質奪還のため待機しているSAS隊員のフィンは、ある女性のことを考えている。このハイジャック事件のリーダーはカーラではないか、と。十ヶ月前のボスニアで、自分たちのチームの命を救った女性、そして彼が彼女に語った「敢然と戦う者が勝つ」という言葉――ハイジャックという、無関係の人間の命を危険にさらす卑劣な行為を前にしているにもかかわらず、どこか煮え切らない思いをSAS隊員にいだかせるこのカーラという女性は何者なのか、そして、このハイジャックのリーダーは本当にカーラなのか。

 多くの不明瞭な部分を残したまま、時間軸が十ヶ月前のボスニアへと一気に遡っていく本書は、言ってみればこのハイジャック事件に到る過程とその結末を描いた作品だと言うことができるが、そこでとくに強調されているのは、いわゆるユーゴスラヴィア紛争を土台とした、弱者と強者というひとつの構図である。1994年1月、セルビア人勢力による砲撃にさらされているボスニア・ヘルツェゴビナの町マグライで、日々命の危険と飢餓に苦しめられている人々と、そんな人々の実情を知っていながら手をこまねいている国連と、それぞれの国の利害ゆえに見て見ぬふりを決め込んでいる各国政府という構図は、何よりも流暢にこの世界における弱者と強者の理論を物語っている。

 日々のわずかな食糧配給のために、常にスナイパーが狙っている橋を駆け抜ける危険を冒さなければならないという極限状態のなかで出会うことになったカーラとフィン――マグライの住人で愛する夫と子どもをもつ母親でもあるカーラと、国連と各国政府の勝手な命令変更によって、マグライの前線に取り残される形となり、少なからぬ犠牲を強いられたSAS隊員のフィンの立場は、いずれも権力者たちの指先ひとつでその命すら左右される弱者でしかない。お互いにまったく異なる世界に生きるふたりに唯一共通している、個人としては何の力ももたない弱者であるという点をひとつの起点とし、その結果として冒頭のハイジャック事件が配置されたとき、この物語は、カーラが弱者から強者へとのしあがっていくストーリーとして捉えることができる。だが、それは本書を形づくる多くの要素の、一側面でしかない。

 だから自分をあわれむのはやめろ。誰もがわたしをファックすると愚痴るんじゃない。きみも他人をファックしているんだ。

 本書のなかには、カーラとフィン以外にもさまざまな人物が登場する。政府関係者や権力者たち、テロリストのグループ、各国の諜報部員たち――弱者と強者という区分をつけるなら、強者の部類に入る彼らは、安全な場所からそれぞれのゲームを演じるプレイヤーである。だが、本書を読み進めていくとおのずとわかってくることであるが、彼らの強者としての立場は、けっきょくのところイギリスの外務大臣であるランドンの「多少の犠牲はやむをえない」という言葉が象徴するように、あくまで弱者をファックしつづけることで成立するものでしかない。そしてそこには、強者の見る世界と弱者が見る世界の決定的な違いが存在する。

 カーラの行動は、弱者から強者へと向かう一本のベクトルであり、本書の構造をまっすぐ貫く矢でもある。だが、その道のりは同時に、人間社会がはらんでいる狂気の世界へとまっしぐらに進んでいくことを意味する。愛する夫とひとり息子を失い、ユーゴスラヴィア紛争で帰る故郷さえ失ったカーラ――テロリストのメンバーとして着々とハイジャック計画を進めていく彼女の心は、はたして強者が陥る狂気のなかに取り込まれてしまったのか。そのあたりの真相については、ぜひとも本書を読んでたしかめてほしいところであるが、ひとつだけ言えることがあるとすれば、それは本書が弱者と強者の世界を描き、また強者が陥る狂気を描いているのと同時に、弱者であるからこそ見えてくる、人間としてのあるべき姿も描こうとしている点である。そして、その中心にはカーラがいて、その言動はやがて世界にも影響を及ぼしていく。そのダイナミックな構造は感動的ですらある。

 人間世界における弱者と強者という狂った世界の法則に翻弄され、また自らも力を求めるがゆえに狂気を内にはらみながらも、ぎりぎりのところで人間としての正気を保っていくカーラ――その緊迫した戦いと、その戦いがもたらした結果は、読者を深い感動へと導いていくに違いない。そしてそのとき、読者はきっと誠意に誠意を返すという、あたりまえのことの大切さ、偉大さをあらためて思い知ることになるだろう。(2007.03.01)

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