【光文社】
『カラマーゾフの兄弟』

ドストエフスキー著/亀山郁夫訳 



 以前読んだ辻邦生の『背教者ユリアヌス』は、人間が自分自身の手で正義と秩序を実現できるはずだという理想を信じて生きたローマ皇帝ユリアヌスの一代記を描いたものであるが、その思想の背景には、人間は基本的に自由であるというひとつの前提がある。人間というものは、その気になればいくらでも善を成すこともできれば、いくらでも悪を成すこともできる立場にいる。自由である、ということ――それは、他ならぬ自分自身の意思で何を成すべきかを選択し、その選択の結果に責任を負うというひとつの決意であり、こと何かを選びとらなければならないようなときには、このうえない重荷となってその人にのしかかってくることもある。

 たとえば、森達也の『死刑』という作品は、日本における死刑制度、人々の目からひたすら隠されている死刑を、あくまで第三者としての視点で読者の前に浮き彫りにしようとしたノンフィクションであるが、人が人を裁くということ、人が人の刑罰、とくにその生死を左右するような判決をおこなうということに真正面から向き合ったときに、私たちはかならずある種の葛藤と苦悩を経験することになる。自分たちは、原告や被告のかかわった犯罪の当事者ではない。あくまで他者でしかないのだ。だが、私たちが生きる社会というものは、しばしば当事者の意識とは切り離された他者性によって成り立っているところがある。

 私たちは自由である。だがそれゆえに、ときに重大な選択を、自らの良心や信念といったものと照らし合わせたうえで、決定しなければならないことがある。あるいは、そうした選択にかかわらないという選択をとることもできるだろうし、あえて何も選ばないという選択もありえるだろう。だが、それでもなお何か重大な事柄の選択を迫られるようなときに、はたして私たちは、あくまで主観を生きるしかない人間であるというひとつの限界をどのようにして克服していくことができるのだろうか。あるいはそうした選択は、人間の精神に耐えられるようなものなのだろうか。

 今回紹介する本書『カラマーゾフの兄弟』という作品は、じつのところその内容を要約してみると、非常に簡潔なものとなる。そしてその中心に来るのは、ひとつの殺人事件だ。殺されたのはフョードル・カラマーゾフという金満家であり、その容疑者として長男であるドミートリーが逮捕された。あらゆる証言、あらゆる状況証拠が、犯人が彼であることを示しているが、当の本人は父殺しについては一貫して否定をつづけている。はたして、ドミートリーは本当にフョードルを殺害したのか。それとも、別の犯人が存在するのか。

 事件の真犯人とその真相という意味では立派なミステリーであり、また事件をめぐる検事と弁護士の激しい対決や、劇的にもたらされる証拠や二転三転する事実のスリリングさなどは、法廷小説としても充分な迫力をもちあわせている。それと同時に、もしドミートリーが本当に無罪であるとするなら、さらに冤罪というテーマにも迫ることになる本書は、他にも恋愛小説や青春小説、あるいはピカレスクや不条理など、じつにさまざまなジャンルの要素を内包しており、それだけ本書について語るべきことは数多くあると言える。だが、そうしたさまざまな要素を超えたところに見えてくるものがあるとすれば、それはまぎれもない人間たちの揺れ動く心、けっしてひとつところにとどまることのできない、またあるひとつの枠でくくってやることもできない人間の、その複雑な心の動き、矛盾しながらもその矛盾、両極端なものの考えをかかえて生きている人々の生き様そのもの、ということになる。

 そのタイトルに「兄弟」とあるように、本書には三人の兄弟が登場する。フョードルの先妻の子であるドミートリーは退役将校。金遣いが荒く、女遊びもさかんな放蕩息子であり、気性は荒々しく、ときに暴力にものをいわせるようなところがあるものの、そのじつどこか一途でひたむきに突っ走っていく情熱ももちあわせている。次男のイワンと三男のアレクセイは後妻の子どもであるが、イワンは教養の高いインテリで、神の存在もふくめたあらゆるものを信じることのできずにいるシニカルな側面をもついっぽう、アレクセイは誰からも愛される善良さと人のよさをもつ信心深い好青年で、物語当初は修道院に身を置き、その長老であるゾシマの人柄に大いにほれ込んでいる。

 いっけんすると、それぞれが特徴的な性格をもちあわせている三兄弟ではあるが、それはけっして一枚岩であるというわけではない。本書を読みすすめていくとわかってくることであるが、ドミートリーもイワンも、そしてアレクセイでさえ、その外側に出てくるものとは裏腹に、その内面においては独自の倫理や価値観といったものをもち、そしてそれは登場人物たちの性質を固めるというよりは、むしろ大きく揺さぶりをかけることになる。その不安定な性格の要因となっているのは、およそ人でなしである父親の存在だ。このうえなく粗野で好色、そのくせ金のことには人一倍うるさく、まさに自身の欲望を満たすことがすべてというこの道化は、妻の持参金を独り占めしたり、また生まれてきた三人の息子にしても、ほったらかしにしたままその存在さえ忘れてしまったりといういい加減さである。

 このフョードルという人物は、ゾシマ長老を招いたうえでの親族会議の場面にも象徴されているように、何かが決定されそうになると、その道化ぶりを発揮してその場を茶化してしまい、すべてをうやむやにしてしまう。そういう意味で彼は、あらゆる混沌、秩序とは対極にあるものの象徴と言うことができる。そしてこの無秩序ぶりこそが、本書のなかで起きてしまう殺人事件の根本にあるものであり、またその後につづく未曽有の裁判へとつながっていくものでもある。

 カラマーゾフの三兄弟が両親の愛、とくに一家の権威たる父親の愛を受けることなく育ったという過去を重視したときに、彼らのなかでけっしてさだまることのない自己は、人間として当然あるべき愛がなかったからこそのものだ。ここでいう「愛」とは、自分がこの世界にいていいということ、存在を許されているという一種の「許し」でもある。そして、だからこそ彼らは、ゆるぎないアイデンティティの拠り所を求めて苦悩せざるをえない。たとえば、ドミートリーはただでさえ自分のものとなるはずの財産が父親に不当に奪われたという強い思い込みがあり、その点で父親とのあいだの緊張感は高まるいっぽうであったうえに、今度は自分が好きになった女性という点でも父親とライバル関係になってしまう。何かを与えてくれるどころか、自分からあらゆるものを奪ってしまう父親――ドミートリーの、まるで何かに飢えているかのような狂騒ぶり、放蕩ぶりも、イワンの神の永遠や不死を否定したうえで、あくまで人間自身による秩序の構築を望みながらも、なんでもできてしまう人間の自由さという巨大な責任に押しつぶされそうになってしまう苦悩も、そしてアレクセイのキリスト教的愛への傾倒ぶりもまた、ともすると読者の目には極端なものとして映る。

 まぎれもない自身を意識することを宿命づけられてこの世界に生まれてきた、人間という存在――その他の動物ではなく、人として生まれてきた以上、人として正しくありたいという願いは、誰しもが一度は心に思い描くことでもある。だが、悲しいことに人は、日々の生活を満たすことで忙しく、しばしばそうした高潔な意識を忘れてしまう生き物でもある。高貴でありたい、正しいことを成したいという思いと、とにかく目の前の欲望を満たしたいという動物的な渇望のあいだで、私たちは常に揺さぶられ、また心を引き裂かれている。そんなカラマーゾフ的狂乱のさなかに、フョードルが殺害された。誰もが人でなしと考え、殺されても仕方がない、むしろ死んでしかるべきだとさえ思われていた人物がじっさいに殺されたとき、逮捕されたドミートリーはその殺害を否定し、アレクセイは兄の供述が真実であることを信じ、イワンは下男スメルジャコフ――じつはフョードルの私生児だと言われている彼との対話のなかで、自分の父親への殺意を認め、苦悩する。そして、そうした過程を追っていったうえで、本書はあらためて読者に問いかけてくることになる。はたしてフョードルを本当に殺したのは誰なのか。たとえ、じっさいに自らの手を汚していないとしても、彼の死を望んでいたのではないか。そしてその殺意、殺されていい気味だという暗い感情は、はたして人として罪とはならないのか、と。

 本書の物語構造は単純だと、私は前述した。たしかに、状況的にはドミートリーが犯人であることは、この以上ないというくらい確実なように思えてくる。だが同時に、スメルジャコフとイワンとの対話のなかで、他ならぬスメルジャコフの口からもたらされる供述は、彼自身が主犯であるという事実を浮かび上がらせることになるのだが、物語はすでにこの時点で、たとえば「誰が犯人なのか」といった単純な解決方法を超えたところで動いていると言っていい。そして事実、ドミートリーの裁判の場面において、そうしたカラマーゾフの兄弟たちの内面とは無関係に、検事や弁護士といった第三者の面々が、いかにももっともらしいことを述べながらも、しかしそのじつ自分の役割をはたそうとしているにすぎないという、ある種の茶番劇のような裁判の様子がつづくことになる。そこから見えてくるのは、人間であるがゆえの限界――人が人を裁くということに対するある種の愚かしさである。

 人は神ではない。誰がどのような罪を負うべきなのか、ということについて、それを決定できるのは神だけだという思想が、本書のなかに垣間見えることがある。そのさいたる例が、アレクセイによって書かれた、ゾシマ長老の辞世の説教における、ある罪人の話である。あるつまらない嫉妬心から好きだった女性を殺し、その罪を使用人にかぶせたというその男の話は、自身の幸せな生活とは裏腹に、罪の意識に長く苦しんだあげく、精神を病むという形で破局するという結末を迎えることになるのだが、このいかにも教訓的な教えのなかで生きたゾシマ長老らしい説教は、その後のドミートリーの裁判の結末を象徴しているようで、じつに興味深いものがある。

 神という絶対の存在を、単純に信じられなくなった十九世紀、科学技術の飛躍的な発達が、人間に秘められた可能性の大きさを謳歌すると同時に、神という共通の信じるべき基盤が崩壊したのちに、個人が限りなく孤立したまま、自らの足で立って歩いていくことを自覚しなければならなくなった時代――それは、本書が書かれた時代の背景であると同時に、相対主義のなかで、何を信じるべきなのか、自分のなかの何に重きを置くべきなのか、その芯を見出せないまま混迷している二十一世紀につながっている問題でもある。この作品のなかで、誰がフョードルを殺したのか、という点は、ある意味でははっきりと書かれていることではあるが、同時にこのうえなく曖昧で、語られていることの何が真実なのか、はっきりしたところはわからないと言うこともできる。父殺しは、はたして本当にあったことなのか、そして本当にあったというのであれば、それはこの時代において、何を意味することになるというのか。本書の問いかけは、まさに時代を超えて私たちに、いまだ答えることさえできない人間のありようを、あらためて思い知らせるだけのものをたしかにもっている。(2008.12.25)

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