【河出書房新社】
『説教師カニバットと百人の危ない美女』

笙野頼子著 



 ずっと前にフジテレビで放送していた「ねるとん紅鯨団」は、お笑いタレントのとんねるずが司会を務めていたバラエティ番組のひとつで、言ってみれば視聴者参加型の集団お見合いパーティの様子を面白おかしく盛り上げて放送するというものだったと記憶している。番組の最後のほうでは、男性が気に入った女性に付き合ってほしい旨を伝える「告白タイム」なるものがあり、ときにはひとりの女性に対して複数の男性が告白する、という場面も当然出てきて、私も当時けっこう面白くテレビを観ていたりしていたのだが、そのときにどうしても不思議で仕方がなかったのは、誰からも告白されなかった女性の扱いについてであった。告白してフラれた男性に対しては(番組では必ず男性は誰かに告白することになっていた)、短いながらもコメントを求める場面があったにもかかわらず、男性に見向きもされなかったことになる女性については、「告白タイム」以降、まるでその場に存在しないかのような扱いになってしまっているのだ。

 「ねるとん紅鯨団」における女性の立場は、自分から男性を選択する権利はあたえられておらず、そういう意味では男性主導型の番組だったということでもあるが、ともかく女性としては、男性のほうから告白されるように――それも、自分が気に入った男性が言い寄ってくるように、いろいろと画策する必要が生じてくる。この番組は、たしかに彼女のいない男性たちが新しい彼女をゲットするための場であったが、同時に女性としては、自分の女としての魅力を再認識するための場でもあったと言うことができる。

 番組の性質上あたりまえのことではあるが、男性たちを惹きつける力のない女性にとって、「ねるとん紅鯨団」の存在が何の意味ももたないのと同じように、「ねるとん紅鯨団」にとって美人ではない女性は、まさに存在すら否定されるという結果となった。それはけっきょくのところ、世の男性たちの大半が、まるで世論であるかのように突きつけてくる女性の価値観――美しく、従順であれという無言の強制を形にしたものでもあった。今回紹介する本書『説教師カニバットと百人の危ない美女』のなかに描かれているのは、言ってみれば「ねるとん紅鯨団」において存在することを許されなかった女性たち、世間で見向きもされない女性たちの醜く歪んだ部分によって構成された、めまいがしそうなほどシュールで悪意に満ちた世界である。

 本書にはとくに筋書きらしい物語構成は存在せず、ただひとつの対立構造のみが小説内世界を築いていると言える。そのいっぽうには、八本木千本という名の小説家がいて、彼女は自分の容姿が非常に醜いものであることを自覚した上で、その醜さを切り売りする「ブスもの」を書くことで生計を立てている。そしてもういっぽうには、なんとも奇怪な亡霊たちがいる。

 巣鴨こばと会残党、またの名をカニバット親衛隊。かつては一万人を越えた、結婚願望ばかりが発達した異端の女性集団。が、今ではその数もたった百人、ああ、またファクシミリが鳴る……。

 ひょんなことからこの百人の「異端の女性集団」にとりつかれることになった女性作家八本木千本が、日々彼女たちからえんえんと届けられるファクシミリ文書や写真や胸の悪くなるようなプレゼント攻撃に頭を悩ませている、という展開がひたすら続く本書は、言うまでもなくブスであるがゆえに恋愛や結婚といった世界とは無縁の「魔境」に生きる中年女性の価値観と、理想的な結婚こそが女の幸せであると信じて疑わないこの女ゾンビたちの価値観との決定的なすれ違いを、ブラックなユーモアをまじえて書いたものである。その昔、女性の生き方について、女性差別的女性論を展開し続けてきた流行エッセイストにして説教師カニバットの考えをひたすら信奉した結果、理想的な結婚から完全にはずれてしまった女性の亡者たち――幽霊ゆえに死ぬことも飽きることもなく自分たちの考えを押しつけてくる迷惑千万な輩たちも、自分のブスさ加減にある種の矜持をもって生きる八本木千本も、世間一般から見れば相当にズレた存在であり、そんな彼女たちの言葉のやり取りは、それこそ不毛以外のなにものでもないのだが、そんな、ただそこに孤立するだけならとりわけなんということのない二者が、否応なく関係をもたざるを得なくなったときに生じる、どうしようもない言葉の応酬と、そこから生じる独特の世界観こそが、本書の醍醐味である。

 幽霊や怪奇現象などというと、ホラー小説めいたものを思い浮かべる方もいらっしゃるかもしれないが、本書に登場する女ゾンビたちは、けっして読者に恐怖をあたえるために存在しているわけではない。むしろ八本木千本が、ときには著者自身でもある笙野頼子までも小説内の登場人物として引っぱり出し、彼女たちがいだいている古臭い妄執に対していちいち突っ込みを加えたりするところなど、どこかこの世界がメタフィクションであることを意識した上での笑いを誘うようなところさえある。だが、本書がただのユーモアで成り立っているわけでないことは、八本木千本に対する亡霊たちの、あからさまな嫌がらせを考えればあきらかだ。そしてそれは、おそらく八本木千本がその容貌ゆえに、常に意識せざるを得なかった、ブスであることに対する罪の意識を引き起こそうとするものである。

 いっけんすると、カニバット親衛隊の会員を名乗る亡霊たちは、結婚して幸せな家庭をもつことの意義を八本木千本に説き伏せようとしているかのように思えるが、彼女たちは同時に、八本木千本の容貌がこのうえなく醜く、滅多なことで結婚など出来そうもないことをじつはよく知っている。もちろん、それはたんに彼女の容貌のせいだけでなく、自分だけの世界に安住し、そこからの変化を望もうとしない唯我独尊的な八本木千本の性格にも拠るところもあるのだろうが、それでもなお、亡霊たちが至上のものとする幸福を早々と放棄してしまった八本木千本の存在は、それだけで彼女たちの存在を脅かす結果になりかねないものでもある。

 八本木千本がブスであるのは、そのすべてが彼女のせいであるわけではない。だが、私たちの生きる世界における、ブスに対するあつかいはけっして肯定的なものではない。世の中にあれほどダイエットに関する情報があふれ、誰もが美人になろうとしているような世界のなかで、八本木千本はむしろ、ブスはブス以外のなにものでもない、という個々の人格さえも否定するようなその流れの逆を行くようにして生きてきた。いや、彼女の言葉を借りるなら、それ以外の「選択の余地などなかった」、ということになるのだが、世の中を生きていくうえで多くの人々とのかかわりを築いていかざるを得ない以上、彼女の存在は、それ自体が常に社会的通念との衝突を生み出すことになる。その衝突を避けるために八本木千本がとったのは、できるだけ人々とのかかわりを避け、自分だけの独自の世界を生きる、というものだったことは、容易に想像できることである。

 そんなふうに考えたとき、八本木千本が、実体のない亡霊たちとかかわりをもつということ自体が、そもそも無理のある設定であることは言うまでもないことだ。だが、亡霊たちは亡霊であるがゆえに相手の都合など関係なく嫌がらせに精を出すし、八本木千本は彼女たちにどれだけ自分の世界を踏みにじられても、亡霊ゆえに反撃のしようもなく、また逃げることもかなわない。それは考えようによっては相当に悲惨なことであるのだが、ただ一点、八本木千本も亡霊たちも、美人ではないというたったそれだけの事実が、本書をたんなる悲劇から狂的な喜劇へと変貌させてしまう。誰もがあえて目を向けようとしない、ともすると存在しないものとしてしまうような存在、とくに人間の醜さや無意識の悪意といったものを書かせたときにこそ、著者の筆致は冴え渡ることになる。

 女は魔物だと私も含めた男たちはよく口にする。どんな男も性欲だけは抑えられないし、その性欲を掻き立てる女性の魅力は、たしかに魔の力と言えるのかもしれない。だが、そんな社会通念としての魔力から遠く離れてしまった女性たちが、その胸の内にひたすら育てている独自の魔境が、私たちの想像などおよびもしない奇怪な世界を形成していても、何の不思議もない。世間体も常識も知ったことではない、真に人間としての妄想のみで形成された世界の一端を垣間見たいという方は、一度は手にとってみるのも一興な作品である。(2006.09.01)

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