【角川書店】
『カムナビ』

梅原克文著 

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 もし、梅原克文という小説家についてひとつだけ言えることがあるとすれば、それは彼が極上のエンターテイナーである、ということだろう。実際、彼の膨大な知識と想像力の手にかかると、私たち人間が脈々と受け継いできた遺伝子に隠された謎も、また人間にはいまもなお未知の領域である深海世界の謎も、恐るべき力を秘め、世界を破滅へと導く怪物と、そんな怪物に超常的なパワーを使って対抗する人間たちの、人類の未来をかけた運命の決戦へとはや変わりしてしまうのだ。

 本来、好奇心と想像力の塊ともいえる私たち人間は、いまだ解明されていない謎というものに弱い。小説にはさまざまなジャンルがあるが、そのなかでもとくにミステリーのジャンルの小説が、多くの読者の心を惹きつけているのは、そうした人間の性質をよく表わしている、と言えるだろう。そして、ミステリーの読者はえてして、謎が提示されるだけでなく、その謎に対して劇的な解答があることも期待しているものだ。読者の想像をはるかに超える謎と、その謎の驚くべき真相――そんな胸のすくような展開を、常に小説世界を使って繰り広げてきた小説家こそ、梅原克文なのである。

 そんな彼が『ソリトンの悪魔』以来、約四年ぶりに書き上げた作品が、本書『カムナビ』である。そして今回、著者が目をつけたのは、古代日本の謎だ。

 東亜文化大学で比較文化史学を教えている講師の葦原志津夫は、縄文時代における祀り場と関係があったと推測される、由緒不明の神社を研究するかたわら、十年前に突然の失踪をとげた考古学者であり、志津夫の父でもある正一の行方を追っていた。その父に関する有力な手がかりをつかんだ、という新治大学助教授の竜野孝一の知らせを受けて、彼のいる石山古墳を訪れた志津夫が見たものは、金歯の合金やチタンをも溶かしてしまうほどの高熱で焼かれたと思われる、竜野助教授の無残な死体であった。竜野助教授がつかんでいた、正一に関する手がかり――その行方を追っていくうちに、志津夫はこれまでの古代日本史の定説を完全にくつがえしてしまう、一体の土偶と遭遇することになる。
 鮮やかなブルーガラス製の遮光器土偶――年代測定の結果、約三千年前の縄文時代につくられたとされるその土偶は、当時の技術では絶対に生み出せないはずの高熱を使ってつくられた代物だったのである。はたして、この土偶は何なのか? 竜野助教授はなぜあのような姿で死んでいたのか? 土偶に触った者に共通して発生するウロコ状の皮膚は、いったい何を意味するのか? そして、葦原正一はなぜ失踪しなければならなかったのか?

 本書の謎の一端をになう、まるで宇宙人をデザインしたかのような遮光器土偶をはじめ、何に使われていたのかよくわかっていない銅鐸や、「古事記」や「続日本史」などに頻繁に出てくる蛇神信仰、三種の神器、邪馬台国の謎、そして、あきらかに人の手が加えられたとしか思えない、きれいな円錐形を成した山――カムナビ山など、古代日本には人々の心を強く刺激する多くの謎に満ちている。それら古代史の謎に「オルバースのパラドックス」といった、天文学的知識を結びつけ、最終的には私たちが信じる一般常識を完全にくつがえすようなトンデモ真相を展開していくところは、『二重螺旋の悪魔』や『ソリトンの悪魔』でも使われたおなじみの手法であるが、そのトンデモ真相を引き出すための理論武装――その知識の豊富さ、奥深さには、あらためて驚愕するほかにない。もっとも、そのために出てくる登場人物のほとんどが、古代日本史について異常なまでに詳しいという、ちょっと非現実的なところも見え隠れするのだが、抜群のプロポーションを誇り、ブルーガラス土偶の行方を追っているという謎の美女、安土真希が念力で人ののどを締め上げたり、同じくその土偶、そして正一失踪の手がかりをつかんでいるらしい、ボーイッシュな身なりの美少女、白川裕美が古神道の秘術で人を吹き飛ばしたりするのに較べれば、ほんのささいなことでしかない。

 圧倒的な知識と情報量とで、どんなに非現実的な事柄でも、まぎれもない現実のように見せてしまう著者の作品に、エンターテイナーの宿命としてどこかお遊び的な要素が加わってしまうのは否めない。本書においても、その要素は随所で見ることができるが、その典型的な例が、プロポーションという点ではまったく正反対である真希と裕美が、当然のことのようにお互いの存在に反感を抱き、当然のことのように敵として認識してしまう、というものだ。とくに裕美などは、空想の中で、一族の敵がもし女なら「これみよがしに大きなバストを見せつけて、裕美の中性的なプロポーションを鼻で笑うようなタイプ」と決めつけていたのだが、実際にそのような女が登場し、お約束のように立ち塞がってくるのだ。だが、このような読者サービス的なお遊びも、本書ならではの魅力だと言うことができるだろう。

 千二百度という高熱をもってのみつくることが可能なブルーガラスの土偶、そして竜野助教授を黒焦げにした古代の力――カムナビという脅威の力の存在は、あるいは世界の真実の一部を示すものであり、それは常識をひっくり返す世紀の大発見だったのかもしれない。だが、もしこの力の存在が現代の人々の目に触れることがなければ、少なくとも小山麻美や江口泰男のような人間が出ることはなかったのかもしれない、いや、そもそも葦原正一が謎の失踪をとげるようなことにはならなかったのかもしれない、とふと考えさせられる。物事の真理を追求すること――それは限りない好奇心と想像力によってここまで発展することのできた、人間だけに与えられた特権とも言えるものだ。だが、真実を知ることは、ときにその人間に対してあまりにも大きな代償を要求することもある、ということを忘れてはならない。知らなければいいことも、この世にはあるのだ。たとえば、一度銃の威力をまのあたりにしたある狩猟民族が、以前と同じような狩りをしつづけることができるとは、私には思えない。銃という存在を知れば、とうぜん今度は自分で銃を所有したくなり、さらにはその銃で何かを撃ってみたくなり……とその欲望はしだいに大きくなり、最後には人を殺したいとさえ思うようになるかもしれない、ということなのだ。

 ある意味で、無知な人間は幸せである。だが、それは停滞しか生み出さない後向きな行為であることも確かだ。そして人間が人間である以上、何かを知りたい、謎を解明したい、という欲求は、やはりどうあっても押さえつけることはできないと私は考える。だが、そのときは充分に気をつけたほうがいい。あなたの歩もうとしている道は、かつて、真実を見出しながら異端として糾弾され、命さえ落としそうになったある天文学者の歩んだ、悲劇へとつながる道なのかもしれないのだから。(2000.04.26)


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