【新潮社】
『神の子どもたちはみな踊る』

村上春樹著 



 1995年2月、阪神大震災が発生したそのとき、あなたはどのような立場にいて、どこで何をしていただろうか。

 当時、文学部の学生だった私は、その日の夜にいつものように立ち寄った定食屋のテレビを見て、はじめて震災のことを知ることとなった。つまり、地震が発生してからじつに半日もの間、私は何事もなかったかのように、いつものキャンパスライフ(といっても大学は学年末の休暇にはいっていたが)を満喫していたことになる。そして、その事実を知ってなお、私の生活はまったく変化することなく、普通に続けられていった。しょせんは他人事――しかし、新聞やテレビなどのメディアが連日のように神戸の震災後の様子を報道し、多くの人々が震災地で、あるいはそれ以外の場所で善意のボランティア活動を続けている姿を見るにつけ、私はあるひとつの考えにとらわれていくのを感じた。神戸を襲った大規模な地震は、ただ街やライフラインを破壊しただけでなく、日本という島国に住む、一億人以上の人間ひとりひとりの心を試すことになったのではないか、と。そして同時にこうも考えた。神戸はけっして遠い国ではないし、その気になればそこへ赴いて手伝いのひとつもできるはずだった。だが、それでもなお、何の行動も起こさず、ただいつもどおりの生活をむさぼっていたこの私という人物に、はたしてどんな価値があるのか、と。

 そういう意味で、阪神大震災が人々の心に残していったものは、安全神話の崩壊や心理的影響などといったものを抜きにしてもなお、大きなものだったのだろうと思う。時が経ち、人々の記憶からあの震災の事実が風化していくことはあっても、あのとき、あの瞬間にそれぞれの心に浮かんだ本音、そして起こした行動は、けっして消えることのない何かを心に刻み込んだに違いない。そして、村上春樹という小説家は、その「何か」を小説という形で表現することを選んだ。それが本書『神の子どもたちはみな踊る』なのだと思う。

 本書は文芸誌「新潮」に連載されていた『地震のあとで』の五篇に、書き下ろし一篇を加えた短編集である。面白いことに、これらの短編集に共通しているのは、地震の直接の被害にあった神戸市とはまったく関係のない場所が舞台となっている、ということである。だが、それぞれの物語がそれぞれの形で、阪神大震災という命題を抱え込み、それを表現しようとしていることだけは確かだ。
 それは例えば、『UFOが釧路に下りる』のように、テレビで震災の報道を何日もじっと見ていた妻が、突然家から消えてしまったり、『蜂蜜パイ』のように、同じくテレビで地震のニュースを見た子どもが「地震男」なる幻の影におびえるようになったり、といった、物語がはじまるきっかけとして使われていることもあるし、『アイロンのある風景』に出てくる、浜辺で焚き火をするのが趣味の三宅さんの妻と子どもが、じつは神戸の東灘区に住んでいたり、『神の子どもたちはみな踊る』に登場する善也の母親が、新興宗教がらみのボランティアで被災地に出かけていたり、といった、物語の筋とは直接関係なさそうに見えるつながり方をしているものもある。そして、登場人物たちは、それぞれの物語の中で、あるいは不変だと思っていたものが、ある日突然に崩壊してしまうというこの世の不条理を感じ、あるいは自分という個の希薄さをあらためて思い知り、あるいは人を憎み、自分を憎むことに疲れて、夢を待つために眠り、あるいは目に見えるものすべてが正しいわけではない、という真理について思いを巡らせる。

 阪神大震災のことをテーマにして小説を書くなら、たとえば長崎県島原市の雲仙普賢岳噴火をテーマにした御坂真之の『火獣』のように、その事件の起きた場所を舞台とするのが正統なのだろう。そして、村上春樹ほどの力量を持つ者であれば、それはけっして不可能な作業ではなかったと私は思うのだが、それでもあえて、震災とはまったく関係のない舞台、そして登場人物を用意した理由のひとつは、阪神大震災という、あまりにも生々しい事件を前にしたときに、それでもなおその事実を小説という形で再構築するためにどうしても距離を置く必要があったからではないか、というのが挙げられる。このことを説明するには、地下鉄サリン事件の被害に遭った人々のインタビューを載せたノンフィクション『アンダーグラウンド』に対するある文芸評論家の意見を紹介する必要があるだろう。それによると、当初著者は、それらのインタビュー記事を集めて小説を書こうとしていたのではないか、というのである。

 だが、けっきょくのところ、できあがったのは『アンダーグラウンド』というノンフィクションであり、小説ではなかった。地下鉄サリン事件という、まさに「小説よりも奇なり」を地で行くような出来事をまのあたりにしたときに、どんな物語も意味をなくしてしまう、という経験をした著者が、同じく衝撃的な出来事だった阪神大震災をテーマにした小説を書こうとしたときに、同じような思いを抱いたのではないか、という推量である。

 その考えは、あるいは的を射た意見なのかもしれない。だが、ここで見逃してはならないのは、本書に載せられたどの短編集にも、前述したような「逃げ」の姿勢を感じられない、ということである。一見、震災そのものから距離を隔てて書かれた設定であり、舞台であるのだが、実際に手にして読んでみると、これ以上はないと言えるほど、まぎれもなく「阪神大震災」に触れていることを感じることができると思う。それは、おそらく著者がほんとうに書きたかったものが、現実世界の自然現象として発生した阪神大震災ではなく、テレビや新聞といったメディアが生み出した、そしてそれを見た一般市民の心に生まれた、イメージとしての「阪神大震災」だったからではないか、と思うのだ。じっさい、『タイランド』という短編では、さつきという女が、神戸に住んでいるある男に対して、「重くて固い何かの下敷きになって、ぺしゃんこにつぶれていればいいのに」と想像することで、さつきにとって憎い男を殺してくれる存在としての「阪神大震災」を生み出し、それは結果として、同じくタイに住む夢占いの老女の予言という、別のイメージによって打ち崩されることになるのだし、『かえるくん、東京を救う』にいたっては、「阪神大震災」によって眠りをさまたげられたみみずくんが起こそうとたくらんでいる地震を、突然目の前に現われたかえるくんとともに食いとめる、という、『羊をめぐる冒険』を彷彿とさせるような、奇妙な非現実的イメージを展開しているのである。言うまでもないことだろうが、阪神大震災はみみずくんの眠りをさまたげたわけではないのだから、この短編で語られる「阪神大震災」もまた、イメージのひとつでしかないのだ。

 もう一度、問おう。阪神大震災が発生したそのとき、あなたはどこで何をしていただろうか。

 もし、あなたが本書を読む機会に恵まれたなら、おそらくあなたの中にある、あなただけの「阪神大震災」のイメージと直面することになるだろう。そのとき、あなたの持つそのイメージが、はたしてあなたにとって幸いとなるのか、あるいは災いとなるのか――自分という人間の本質を、否応なく目の前に突きつけてくる本書は、あるいは何かを大きく変えてしまう恐るべき力を秘めた一冊なのかもしれない。(2000.05.11)

ホームへ