【リトル・モア】
『かくしてバンドは鳴りやまず』

井田真木子著 



 フィクションとノンフィクションの違いは何か、と問われたとき、もっとも単純明快な答えは、それが創作か事実か、ということに尽きるだろう。たとえば、フィクションのなかで殺人事件が起こったとしても、そのために現実世界で警察が動き出すことはありえないが、ノンフィクションのなかで殺人事件が起きたとしたら、それは過去において現実世界の警察を動かす力を持った事実として、たしかに実在した事柄であるということを意味している。もし仮に、まだ警察が動いていなければ、ノンフィクションに書かれた事柄は、確実に警察を動かすことになるだろう。なぜなら、それは事実だからだ。

 ノンフィクションとは、事実を扱う文芸ジャンルである。だが、ただ単に事実を書けば、それがノンフィクションとなるかと言えば、答えは「ノー」だ。もし「事実」が知りたいのであれば、新聞記事でも読んでいればいい。思うに、ノンフィクションの読者がノンフィクションというジャンルの本に求めているのは、たんなる「事実」の羅列ではなく、「事実」の裏に埋もれてしまった「真実」なのだ。そして「事実」が唯一無二のものであるのに対し、「真実」はそれを受け取る人の数だけ存在する。

 素晴らしいノンフィクションには、どれも「真実」が含まれていた。それも、他の誰でもない、その人でなければ到達しえなかったであろう「真実」が。そういう意味で――創作から入るにしろ、事実から入るにしろ、ひとつの「真実」を描いてみせる、という意味で――フィクションもノンフィクションも、その根幹にあるものは同じなのではないか、と私は思っている。そして本書『かくしてバンドは鳴りやまず』の著者である井田真木子もまた、まぎれもないノンフィクション・ライターであり、また「真実」を追いつづける人であった、と言っていいだろう。

 本書は「21世紀に伝えるべきノンフィクション作品」というテーマで作品を紹介し、同時に作家論を展開する、という企画で雑誌「リトル・モア」に掲載された文章を単行本化したものである。本書に載せられた「連載企画書」によれば、それは全10回の予定だったらしいが、じっさいに収録されているのは3回分のみである。著者自身の突然の死去によって打ち切らざるを得なかった「世界の十大ノンフィクション(井田真木子バージョン)」が、あえて未完の形で単行本化されたのは、本書が事実上の著者の絶筆本となることに加え、「これまで誰も書いたことのないタイプのノンフィクション作家論」であると編集部が判断するほど、特異な作品となっていることも大きい。

 じっさい、本書を読んでいけばわかると思うが、著者はまるで、イメージトレーニングでも行なうかのように、自分がこれから紹介するノンフィクション作家像を、自身の頭の中に築き上げ、自在にその人の視点に入りこんだり、また仮想の対話を交わしたりすることで文章をつづっていく。ノンフィクションの基礎とも言うべき「事実」――たとえばいつ、どこで、誰と、どのような話を聞いたのか、といった事実を書くこと、あるいは、どのような文献からどんな文を引用したのか、といった正確な情報を記することに、それほど頓着してはいないように思える。もちろん、だからといって著者が事実そのものを軽んじていたわけでないことは、そこに描かれた作家たちが、じつに生き生きと動き、ものを考えているかを見てみれば明確だろう。そこにあるのは、ある人間について、自身と同化してしまいかねないほど理解しようと努めた人間のみが生み出すことのできる「真実」の作家像なのだ。

私は『私』からは発進しない。むしろ『私』とは別のかたちを常に模索します。たとえばそれは写生という技術です。――(中略)――写生すると、むしろ大きな『私』というものが出てくるように感じます。

 本書の巻末に載せられた著者へのインタビューで、「私」から発するノンフィクションが抱える問題について、彼女はこのように答えている。写生するように対象をとらえる、というのは、いったいどういうことなのか。「より大きな『私』」とは何なのか――正直なところ、著者が本書で目指そうとした、ノンフィクション作家としての「私」の立場をどのようなところに置こうとしていたのか、私にはまだ完全に理解することができずにいる。ただわかるのは、「私」がノンフィクションを書く、ということ自体に、あまりこだわってはいなかった、ということだろう。だからこそ、著者の視点はときに自在に「私」から抜け出して、まるで対象の人間そのものになったかのように、あるいは目の前にその対象が存在するかのように、ノンフィクションを書くことができたのである。

 不思議なことに、本書で紹介されているランディ・シルツにしろ、ラピエールにしろ、カール・バーンスタインにしろ、あるいは『きけわだつみのこえ』の無名の青年にしろ、どこかに著者の面影を見ることができる。文章を書く「私」にこだわらない著者によって生を与えられた「真実」の作家たちは、彼ら自身であると同時に、著者自身でもあるかのように見えてくるのだ。そして私たち読者は、ふと考える。著者と、著者によって紹介されたノンフィクション作家たちと、どこに共通する点があるのだろうか、と。

 生きることへの切実さ、という点だろうか。
 あるいは、世間に受け入れられないマイノリティー的な思考の持ち主である、という点だろうか。

 考えても、答えは出ない。「謎」である。だが逆に言えば、その「謎」こそが、井田真木子というひとりの人間が持つ特異性であり、また大きな魅力だったのではないか、と今はふと思うようになっている。ちょうど著者が、内面に「謎」をかかえたノンフィクション作家たちに惹かれていったのと同じように。

 それを読んだ人間に、生きた証をたしかに感じさせる本――自らの内にある孤独も破壊も恐怖も越えて、生のリアリティをもたらしてくれる本というものに切実なまでに惹かれていった著者が、本書で紹介してきたノンフィクションは、けっきょく企画のみで文章化されることのなかった作品も含めて、たしかに生の息吹を感じさせるものであろうと思う。そして、そのノンフィクション作家たちに向けられた以下の言葉は、そのまま本書の著者自身にもあてはまるものだろう、と私は確信している。

 "あなたたちは死んでいるんでしょう。間違いないわ。
 それでも、やっぱりこの死人たちはあなたたちじゃない。
 あなたたちはほんとうは死んだわけじゃないのよ"

(2002.11.01)


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