【文藝春秋】
『カイシャデイズ』

山本幸久著 



 私が今勤めている会社には、作業着がある。入社したときに会社から支給されたもので、会社のロゴが白い糸で刺繍されている。色は……なんといえばいいのだろう。純粋なグレーというわけではない。小豆色というほど濃い色でもない。ともかく、そんなたぐいの色の作業着なのだが、不思議なことに、じっさいの作業場ではたらく社員には、作業場用の作業着というものが別にあったりする。社内SEということで今の会社に採用となり、仕事といえばシステム開発、デスクに座ってプログラムをガリガリ書いている私としては、なぜこの作業着が自分に必要なのかよくわからなかったのだが、ではその作業着をまったく使っていないのかといえば、じつはけっこう頻繁に着込んでいたりする。

 さすがに夏場は椅子の背もたれにかけっぱなしだが、冬は防寒の意味で羽織っていることが多い。会社が暖房代をケチってなかなか暖房をつけない、ということもあるが、そのくせなぜか廊下の窓が全開になっていたりして、社内でもけっこう寒かったりする場合が多いのだ。だがそれ以上に、この作業着をつけて仕事をしないと、文字どおり服が汚れるから、という理由のほうが大きい。私はたしかに社内SEなのだが、SEである以前にその会社の社員であり、そうである以上、仕事というのはシステム開発だけしていればいい、というわけでもない。作業場のパソコンやプリンターの調子が悪ければ、ときに埃だらけの配線周りを点検しなければならないときもあるし、人事異動で機器を移動したり、LANの工事を手伝ったりすることもある。そんなとき、スーツやYシャツ姿ではあっというまに汚れてしまう。そういう意味で、作業着というものは予想以上に私の仕事の役に立ってもいるのだ。

 仕事とは何なのだろう、とふと考える。自分の仕事、会社から与えられた仕事、なしとげなければならないノルマ――サラリーマンにとって会社で働くというのは、言うまでもなく給料をもらうための手段だ。働かなければ金はもらえず、そうなれば生活もしていけなくなるし、家族も養っていけない。だから働く。だが、給料がもらえればどんな仕事でもいいのかといえば、そんなわけでもないし、もし宝くじなどが当たって、この先働かなくても生涯暮らしていけるだけの金が手に入ったとしても、仮に今勤めている会社を辞めることはあっても、仕事をすること、働くということそのものをやめてしまうという人は、あるいはそれほど多くはないのではないだろうか。本書『カイシャデイズ』の舞台となっているのは、「ココスペース」という名の会社だ。社員数四十七名、東中野に社屋を持つ内装会社で、店舗や商業施設などのリニューアル工事を請け負っている。本書はそんな、けっして規模が大きいとはいえない会社に勤めている社員たちの仕事ぶりを描いた短編集、ということになる。

 いわゆる経済小説などにありがちな巨大な陰謀とか、あるいは企業同士のしのぎを削る商戦とか、政治的癒着といったものは、本書のなかでは無縁の世界だ。それこそどこにでもありそうな、社会にさほど大きな影響力ももたない中小企業の物語であるが、かといって小さいながらもアイディアや技術を武器に躍進していこうとする奮闘記のたぐいでも、また中小企業であるがゆえのさまざまなしがらみに苦悩したり、大手の理不尽な要求にあえいだり、金策をめぐって四苦八苦するといった苦労話というのとも少し違う。本書のなかでひとつ特徴的なのは、ココスペースで働いている人たちが、いかにも私たちが想像する「社員」というわけではなく、まさにひとりの人間であることが、あたり前のように描かれている、という点である。

 会社で働く人間が人間であること――それはあたり前のことではあるが、ともすると私たちは、サラリーマンを会社という組織の一員としてとらえてしまうことに慣れてしまっていることも事実だ。とくに、自分が顧客という立場にいる場合、ひとりの社員を見てその会社全体さえも「そんなものか」と判断してしまう。だが、本書に登場する人たちは、たしかにサラリーマンではあるのだが、サラリーマンという言葉が不釣合いに思えるほど、その個性が突出していると言うことができる。とくに営業の高柳憲一、設計部の隈元歳蔵、施工監理部の篠崎光の三人は、彼らが揃ってつくった店舗はよく潰れるという「魔のトライアングル」とも噂されているが、そう言われるだけに、人格的にけっこう問題点のあるトリオだったりする。

 協調性ゼロで粗忽者、酔った勢いで知らない女性にセクハラまがいのことをしたり、取ってもいない契約をでっちあげて売上見込額を計算したりする高柳、フーゾク通いが趣味で、ときどき仕事でもないのに完成した店舗をまわっては、修繕とかしてしまう篠崎、依頼されてもいないのに勝手にラフデザインを描いたり、他人のデザインを勝手に改ざんしたり、さらには借金をしてまで気に入った備品を買ってきては、経理や総務と衝突する隈元――そこにあるのは、およそサラリーマンという枠のなかにおさめるには、あまりにも突出しすぎている人間の個性である。そしてそんな彼らの下に、橋本や石渡といった部下がいて、その上にはおよそ社長らしくない社長の巨瀬や、総括室の大屋がいる。ぜんぶで八篇の作品を収めた短編集であり、それぞれの短編で中心となる人物は異なってはいるのだが、そうした雑然とした個性がまとまったところに、自然とひとつの会社が成り立っている、という構図が、本書のなかにはある。

 たしかに仕事をしている高柳は楽しそうではなかった。といって辛そうにも見えない。真剣に取り組んでいるというふうでもない。兄貴の言う、汗水流して働いて、というのでもない。仕事を生きている。妙な言いまわしだが、そんなカンジだった。

(『スナイパーヒロコ』より)

 割り箸でつくった銃で輪ゴムを飛ばして遊んでいたり、会社のなかでドーナツ食べたり、徹夜明けで床に寝ていたり、かも思えば顧客からの緊急の電話に迅速な対応をしたり、ラフデザインを手に新規顧客獲得のために走り回ったり、全員で左官の練習をしていたりと、そこにあるのはいわゆる「会社」ではなく、まぎれもない「ココスペース」という場であり、そこで働く人たちである。そして彼らにとって「働く」ということと「プライベート」との境界線は、このうえなく曖昧なものとなっている。休みの日でも店のなかに入ると、ついその総工費を計算してみたりする彼らは、しかし「仕事人間」と呼ばれるほど仕事一筋というわけでもない。そこにあるのは、仕事をつうじてたしかに人と人とがつながっている、というあたたかさだ。だからこそ、会社で働くサラリーマンを描いた作品でありながら、そこに出てくる人たちが魅力的に映ってくる。

 会社というのは、利益を出していくことを宿命づけられている。だからサラリーマンたちは、会社の利益をあげるために働いている。経済はお金が循環しなければ成り立たない。だが、回っていくものはけっしてお金ばかりではない。そのお金の流れの裏にはまぎれもない人間がいて、そこにはさまざまな悲喜こもごもが隠されている――本書はそうした「あたり前」にも気づかせてくれる作品でもあるのだ。(2009.01.14)

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