【文藝春秋】
『壊音 KAI-ON』

篠原一著 
第77回文學界新人賞受賞作 



 本書に書かれている世界の、この何とも言えない雰囲気は、いったいどういうことなのだろう。全体として見るとリアリティーに欠ける世界なのに、ある部分は妙に生々しかったりする。それは、たとえば笙野頼子の『タイムスリップ・コンビナート』が持っているような、リアリティーそのものが崩壊している雰囲気とも違うし、多和田葉子の『アルファベットの傷口』に書かれている、現実と虚構の境目が曖昧な世界が持つ雰囲気とも違う。しいて言うなら、現実と虚構(ここでは夢もしくは幻想と言い換えたほうがいいかもしれない)の曖昧さではなく、現実と虚構の混在によって生まれてくる雰囲気、ということになるのだろうか。

 本書『壊音 KAI-ON』で書かれているのは、世紀末を彷彿とさせる、以前の秩序が崩壊したあとの灰色の近未来のように思われる。思われる、と書いたのは、本書のなかに世界観を想像させる情報がじつにアンバランスであり、たとえばアメリカのスラムを思わせるような場所で子供が麻薬の売買をしていたり、「体制側」とか「レジスタンス」とかいった言葉が出てくる一方、主人公らしきユアン(このカタカナによる名前も、ある意味世界観や時代の特定をさまたげている)はちゃんと学校に通っていたり、私達の世界に実在する建物や映画が表現されていたりする。
 このはなはだ統一観に欠ける世界のなかで、タキはしきりに夢をみる――いや、それは夢なのか妄想なのか、あるいは麻薬による幻視なのか、もしかしたら現実が混じっているのか――それもはっきりしない。ただ、タキはユアンに語るだけだ。自分という主観が見た、すべてが崩壊した世界を、そして、自分以外の人間がみんな消えてしまった世界を。そして、タキが見たその寒気がする世界を、ユアンもまた徐々に共有するようになる。

 統一観に欠ける、と言えば、タキという存在そのものについても言える。十代の男であるにもかかわらず麻薬中毒であり、ひどく軟弱で女のように見えるにもかかわらず、ユアンはタキのなかにある種の強さを垣間見る。

 タキは強かった。僕なんかより数倍は、確かにタキが逞しかった。人工的な無邪気さを漂わせたほんとうに無邪気なタキと向かい合うとき、僕のなかでなにかがタキに負ける。――(中略)――僕はタキの中のなにか、タキの大部分を占めている圧倒的に他者より強いなにかが、子どものような透明な殻をタキが選ぶときにちらりと見せる、凍てつくように冷たく見える、その実、たぎるほどに熱いような不可思議な事実が恐いのだ。

 人間は統一されたもの、安定したものを望むものである。ゆえに矛盾したものや常識では推し量れないものに対して、ある種の不安感をいだき、それをとり除こうと考える。本書に漂う、矛盾が共存しているがためのアンバランスな雰囲気は、おそらく読者を混乱させるだろう。だが、私達の住む現実だって、ずいぶんと矛盾をかかえこんだ世界である。深刻な飢餓で一日に何人も餓死する国があるいっぽう、モノが溢れかえってゴミの捨てる場所もない国があるという矛盾、平等や平和を唱えながら常に多くの人と競争しなければならない矛盾、自然を大切にしなければならないとわかっているのに大量消費を奨励する矛盾、自分たちの国であるにもかかわらず別の国の施設が堂々と鎮座している矛盾――そうしたものに気づくたびに、私達はだんだん汚れてきたのではないだろうか。矛盾を矛盾として感じなくなることが大人になる、ということであるなら、その事実のほうにむしろ薄気味悪さを感じずにはいられない。

 ユアンがタキのなかに見た強さ、それは矛盾を矛盾として見つめることができる、小さい頃はおそらく誰もが持っていたはずの強さなのではないだろうか。

 かつて『完全自殺マニュアル』を書いた鶴見済は、人類滅亡といったダイナミックな現象は絶対に起こらない、新しい世紀は確実にやってくるし、そのことで何かが変わるわけでもない、といったようなことを書いているが、私達の住むこの現実は、すでにどこか壊れはじめているのではないか、と思わずにはいられない。それは、底無しの虚無へとすべり落ちてゆく前触れなのか、それとも新たな世界へと生まれ変わるための前兆なのか――(1999.03.23)

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