【新潮社】
『貝がらと海の音』

庄野潤三著 



「春はあけぼの……」という文ではじまる、日本の古典随筆集『枕草子』――おそらく、誰もが一度は古典の授業で触れたことがあるはずのこの作品について、いまさら何を説明するというわけでもないが、あらためて読み返してみると、作者である清少納言は、じつにさまざまな物事に対して感じ入るだけの心をもった女性だったことがよくわかる。そういう意味で、上述の一文を「春ってあけぼのよね!」と訳した『桃尻版・枕草子』の著者、橋本治はやはり偉大だったと言わなければなるまい。教科書などではよく「をかし」の文学と表現されるこの『枕草子』であるが、その「をかし」という感情について、ただ辞書をひいて直訳したかのような「趣きがある」という現代語訳をあてはめるのは、いかにも野暮な行為だと言えよう。そこには、もっと素朴で純粋な感情の動きがあったはずなのだ。

 手作りの料理を食べて「おいしい」と思う。心のこもった贈り物を受けとって「うれしい」と感じる。打算のないあたたかな好意に接して「有難い」と感謝する――いっけん、人間ならごくあたり前のように持っているはずのこうした感情を、私たちはともするといともあっさり忘れ去ってしまうことがある。現実の生活は、けっして楽しいことばかりではない。つらいこと、苦しいこと、嫌なことばかりつづくと、私たちはついつい周囲に目をやるだけの心の余裕を失ってしまう生き物でもあるのだ。「おいしい」「うれしい」「有難い」、こうした単語に溢れている本書『貝がらと海の音』を読んだとき、私がまず思ったのは、『枕草子』との類似性だった。人や自然、四季の移り変わりなど、身のまわりにあるごくありふれた、しかしそれゆえについつい見逃してしまいがちな物事に対して、純粋に素晴らしいと感じ入り、そしてその思いを書き連ねていく。そういう意味で本書と『枕草子』とは、たしかによく似ている。

 本書の内容は至極単純だ。ひと言で表現してしまえば「著者の身辺雑記」である。これ以上、見事なまでに付け加えるものが何もない。「山の上」の家に、妻とふたりきりの生活。だが、自分たちが育て上げた子どもたちは立派に成長し、そう遠くないところに暮らしており、しばしば孫をつれて遊びに来たりする。とくに大きな事件が起こるわけではない。せいぜい、庭に植えた薔薇の花が咲いたとか、長女が3匹の棄て犬を拾ったとか、孫の書いた習字が金賞をとったとか、そうしたごくささやかな出来事を、無駄な修飾詞を極端なまでにはぶいた文章で綴っていく。

 夜、シャトレーのショートケーキを頂く。おいしい。

 午後、ブルームーンを見に行くと、蕾が一つ、咲きかけている。うれしい。

 小説というのは、究極的には自己表現の手段である。だからこそ大部分の小説は、強い自己主張に溢れている。それは、どんなに自身に客観性を強いたところで、日頃の習性のごとく、なかなかとどめることのできないものでもある。私がこうして書いている書評も、またしかり。

 だが、本書の文章のなかには、驚くほど「私」を思わせる要素がない。本書はまぎれもなく著者=「私」の私小説であり、身辺雑記であるはずなのに、その中心にいるはずの「私」の匂いが、限りなく希薄なのだ。それこそが本書の大きな特長だと言えるだろう。そして、著者はおそらく、ほとんど無自覚なままに、自身の姿を印象づけない、無臭に近い「私」像を描こうとしている。それは、本書の中に文字どおり「私」という単語が圧倒的に少ないこと、また「妻の話」「次男の話」といった一文を前につけることが多いことからも推測できる。

 それはいわば、「観察者」としての姿勢だとも言える。けっして波瀾に満ちているわけでもない、おそらく誰もが享受しているはずの素朴な日常生活を、あくまでひとつの目として観察していく「私」――だからこそ、阪神大震災のことに触れるときでさえ、何気ない「小景」のごとく表現することに成功しているわけだが、ただひとつだけ言わなければならないのは、著者の立場をたんなる「観察者」に仕立て上げただけでは、本書の中に頻出する「おいしい」「うれしい」「有難い」といった、それだけで独立した文を成している単語の存在を説明することはできない。

 こちらは二人とも『オズの魔法使い』の本を読んでいないものだから、この手紙にフーちゃんがかいてくれたのは、物語の主な人物であろうと見当をつけるだけで、よくわからない。

 これは、著者が次男の娘である文子こと「フーちゃん」に絵本を買ってあげたあと、そのフーちゃんが書いたお礼の手紙に入っていた絵を、妻とふたりで見たときの感想なのだが、そこにいるのは「観察者」というよりは、まったくの等身大の自分、年老いて、しかしそのすべてを受け入れて生きている、ひとりの人間の姿だ。七十数年を生きて、文壇においてもそれなりの地位も得ているはずの作家であるにもかかわらず、あの有名な『オズの魔法使い』を読んだことがないという、ある意味では恥ずべき事実であるはずのことを、言い訳も弁解もなくそのまま書いてしまう――人間、誰しも自分をより良く見せたがるものであるはずなのに、「わからない」という事実をじつにサラリと書いてしまう。なんと小気味のいい態度だろう、と思わずにはいられない。

 そして、ふと思うのだ。このある種、自己表現を極端なまでに廃した文章こそが、逆に著者の人柄を表現する最良の手段なのではないか、と。そういう意味では、著者はまぎれもなく自身と作品との差がほとんど無きに等しい、その人自身が作品、著者あっての作品を生み出すことのできる、数少ない作家であり、また芸術家でもあるのだ。

 本書のタイトルである『貝がらと海の音』というのは、フーちゃんが著者の妻に語った「貝がらに耳を当てると、海の音が聞えるの」という、本書のエピソードのひとつから来たものであることは間違いないだろうが、同時に私たちはそのタイトルに、あまりにあたり前すぎてすっかり忘れ去ってしまった、しかしはじめてそのことを知ったときは、たしかに不思議なことだったはずの、その事実にあたらめて思いをめぐらせる。はたしてあなたは、「おいしい」「うれしい」「有難い」といった感情を、どれだけ心に抱いて生きているだろうか。(2003.01.10)

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