【新潮社】
『戒』

小山歩著 
第14回日本ファンタジーノベル大賞優秀賞受賞作 



 人がそのけっして長くはない、限りある一生のなかでできることは、必然的にかぎられてくる。とくに、社会的にも有用だと認められるほどの偉大なことを成し遂げようと思うなら、それ相応の努力や時間も必要となってくるし、それでなくとも誰しもが手がけることができるだけの才能をもっているわけでもない。それはたとえるならば――あまりにも卑小な例で恐縮だが――読みたい本が無数にあり、また書評したい本も無数にあるにもかかわらず、そうしたすべての本に対して、努力も時間も才能もないがゆえに、どうしても取捨選択をせざるを得ない私の置かれている立場と似ている。

 もちろん、なかには私よりも巧みな書評を、私より短時間で書き上げ、また私よりはるかに早く本を読み、かつ私より深い洞察力で内容を理解することのできる人もいるだろう。それこそ私にとっては喉から手が出るほどほしい才能であるが、そんな天才であっても、けっきょくのところ自身が人間であるという限界からは逃れることはできない。それは上述したような肉体的な限界、時間的な限界ばかりでなく、人間であるがゆえにかかえこんでしまう精神的な限界もふくまれている。人間の心は繊細で、ちょっとしたことが原因で調子を崩してしまう、なんてのはよくあることだ。

 いくら読書が好きであったとしても、すべての読みたいと思う本を読むことができないのと同じように、やりたいと思うことのすべてが実現できるわけではない。仮に、やりたいことを実現させるための個人的要素がすべて揃っていたとしても――言い換えるならどんな天才であっても――何も成せないまま生涯を閉じることだってあるだろう。だからこそ、人はその生涯のなかで、やりたいと思う数多くのなかから、せめて何かひとつだけでも極めたい、と願うものであるが、今回紹介する本書『戒』もまた、自分が何を選び取るのか、何者として生きるのか、というひとつの覚悟を描いた作品だと言うことができる。

 物語は、紀元ごろに帯沙半島を生きたとされる伝説的奇人「戒」の墓が発見された、という新聞記事めいた出だしからはじまる。体は人間だが顔は猿、見るものすべてを笑い死にさせる滑稽な猿舞いで人々を恐喝し、そればかりか当時の沙南にあった小国、再の明公にとりいって彼をたぶらかし、国を滅亡の危機におとしいれた極悪人として、今も半島の人々に嫌われている人物に焦点をあて、あたかも史実をもとにした歴史小説を語るがごとく物語を進めていく本書の形式は、同じくファンタジーノベル大賞受賞作である酒見賢一の『後宮小説』を髣髴とさせるものがあるが、本書の場合は、あくまで架空の人物、つまり虚構だと思われていた戒の墓が発見され、彼がたしかに実在したという設定を土台としたうえで、そこからあらためて虚構としての物語を語るという周到さを見せている。

 そして、この虚構を現実のフィルターをとおしたうえで、再度虚構として語るという形式は、じつは冒頭だけでなく物語全体をとおして一貫した構造となっている。代々再国の軍事を取り仕切ってきた将軍家の長男であり、また再の公子である明の乳兄弟として生まれ育ち、武芸や学問はもちろんのこと、あらゆる分野の芸術に神業的な才能を発揮し、政治や経済といった方面でも恐ろしいほどの洞察力で先を読んでいく神童、類まれなき天才である戒――そんな彼にとって、古い因習に縛られた、ひどく閉鎖的な再という国はあまりにも狭すぎると誰よりもわかっているにもかかわらず、生涯を明公の影となり、彼を引き立てていくことを戒に望んで死んだ母親の呪縛ともいうべきしがらみによって、どうしようもなく再という国に縛りつけられた戒は、表向きは道化として人々の笑いと軽蔑を一身に受けつつ、裏では明公を名君として祭り上げるためにさまざまな施策をしかけ、国のために尽くす道を歩むようになる。

 やろうと思えばどんなことだってできる才能をもち、土地に縛られる再の古くさい伝統から逃れ、広い世界を自由に歩いて自分をさらに大きく羽ばたかせたいと願っていた戒は、しかし現実にはただの道化と人々に思われ、嘲笑される立場にその身を置き、しかもその真意をけっして誰にも悟らせないようにふるまわなければならなかった。そのあまりにも報いるところの少ない境遇は、結果として戒の本来は健全だった心を徐々に蝕んでいくことになる。

(まことなど、なんになる、明公の気紛れ遊びの世界にしか生きられない、おれたち自体がすでに虚構なのだ)

 だが、たとえ戒がどのように思っていたとしても、彼も、また彼の周囲にいる人たちも、すべてまぎれもない現実として生きている存在である。本書の面白さのひとつは、ふだんは道化じみた踊りばかり舞っている戒が、しかし明公の寵愛を受けていることを気に入らない者たちの陰湿な追い落としの罠に対して、そのありあまる才能をもって軽やかに乗り越えてみせるばかりか、相手を完膚なきまでに叩きのめしてしまうその鮮やかな逆転劇にあることは間違いないし、その様子は非常に小気味のいいものがあるのだが、たとえ自分を陥れようとする敵とはいえ、少なくとも真剣に生きようとしている者たちの策略さえも、なかば遊興のひとつとして片づけてしまう戒の心はけっして満たされることはない。どれほど大きな偉業を成し遂げたとしても、しょせんは猿の舞い手でしかない、という意識――まぎれもない現実としての世界を生きていながら、すべてを虚構としてとらえたうえで生きようとする戒の視点は、しかしその天賦の才ゆえに自身を完全に虚構のなかにおぼれさせることさえも許さない立場に、彼自身を追い込んでしまっているのである。

 もし戒が、ほんとうの道化であったのならば、あるいは幸せだったのかもしれない。そこにあるのは、あまりに物事がよく見えすぎるがゆえにかかえこまなければならない、一種の不幸である。とりかえしのつかない大きな不幸が起こり、それをどうすることもできなかったことを後悔し、それと同時にその不幸を招きいれた自分以外の誰かを非難せずにはいられない、という戒の態度、その迷いは、けっきょくのところ戒自身が何者でもない、何者にもなりえない、という優柔不断さから来ているものである。武官にもならず、文官にもならず、また諸国を旅する学者という夢も断念し、王城の宴席広間に掘っ立て小屋を建てて道化ているだけの、ただの戒――家がないということは、先祖のつながりからも切り離されているということであり、しかしほんとうの道化でもないから、母親のしがらみからも逃れられない。そして、読者はあらためて、墓が実在したことでその存在が確認された戒という人物について考えるのだ。彼ははたして、何者であったのか、ということを。

 まだわかりませんか。まだ決断を先延ばしにして逃げるのですか、戒さま。あなたがすべきは、何者であるかを知ることではなく、何者になるかを選ぶことです。

 戒が手を抜いていることを見抜いてそのことを非難した湖妃、戒の神業的な舞を見て彼に惚れこみ、それまでの自由な旅芸人という立場を捨てて彼の妻となった異人の女・夏雨、そのすぐれた才能を何より誇りとし、また慕ってもいた公子優や醒、そして戒の乳兄弟である明公――戒はたしかに聡明ではあるが、しかし彼の周囲に、彼をただの道化とは思っていない人たちがたしかにいることに、戒はなかなか気がつかない。それは、自分ができるのだから、他人にもできるだろうと考えてしまう安易さと、じつはあまり大差のないことでもある。そのことに気づいたとき、はじめて戒の伝説とこれまで語られてきた物語とが、ひとつに結びつくことになるのだ。

 何かを選択することは、他の選択肢を、目の前に広がっていた多くの可能性を捨てることでもある。逆に、そうした可能性や選択肢を犠牲にすることなく、何か偉大なことを成し遂げることなどできるはずもない、ということでもある。そして、戒が長く縛られてきたしがらみは、じつは現実を生きる私たちが無自覚にかかえこんでいるさまざまなしがらみでもある。もしかしたら、私たちもまた、軽やかに舞うことができるのかもしれない――戒が最終的に選んだ道は、私たちにもきっと、最初の一歩を踏み出す勇気を与えてくれるに違いない。(2005.09.17)

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