【講談社】
『火怨』

高橋克彦著 
第34回吉川英治文学賞受賞作 

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 人間どおしの争いというのは、いつの時代においても醜く、愚かしいものだ。過去に行なわれてきた大規模な戦争に目を向けてみればわかることだが、その大半はけっきょくのところ、ごく一握りの人間の権益や利得、あるいはつまらないプライドや自尊心を満たすための侵略戦争でしかなく、そこにどのような大義名分を持ち込もうと、そのために多くの弱い人間が犠牲になり、また多くの不幸が生み出されることになるのは、今も昔も変わりがないからだ。

 争いは悲劇しか生み出さない。それはまぎれもない事実であるが、しかし、それでもなお、人は進んで戦いへの道を選ばなければならないときがある。

 たとえば故プーラン・デヴィはかつて、盗賊として恐れられてきたということであるが、その自伝『女盗賊プーラン』を読むと、彼女はまさに人間としてあたりまえの尊厳を守るために、カースト制という社会制度や権力者といった大きな敵と戦わざるを得なかった、という事情がわかってくる。いかにも、ただ生きていくだけであれば、わずかな食べ物と暮らす場所があればそれでいいのかもしれない。だが、私たちには心があり、感情があり、そして守るべき志がある。たとえ一文の得にならないとしても、あるいは負けることがわかっていたとしても、最低限守らなければならないものが踏みにじられたとしたら、それを守るために立ち上がるのが人間というものであろう。

 あとは志の問題だ。敵はほとんどが無理に徴収された兵ばかりで志など持っておらぬ。我ら蝦夷とは違う。我らは皆、親や子や美しい山や空のために戦っている

 本書『火怨』は熱い小説である。まさに血潮がたぎるという表現がふさわしい、という意味では極上の人間ドラマを描いた歴史小説であり、隆慶一郎の『影武者徳川家康』、あるいは辻邦生の『背教者ユリアヌス』に匹敵する作品だといっても過言ではないだろう。舞台となるのは八世紀の日本、それまではたんなる辺境の地として朝廷の興味からは遠ざけられていた陸奥(今の東北地方)には、中央から「蝦夷」と蔑まれ、また神に等しい天皇の支配に恭順することのない先住民たちがいた。中央の意思とは無関係に、美しい陸奥の自然のなかで平和に暮らしていた蝦夷――だが、その陸奥の地で黄金が産出されたことをきっかけに、朝廷の一方的な簒奪が開始される。のみならず、蝦夷の部族のなかには中央での出世を望むがゆえに朝廷の傀儡となるものが出現するにいたり、このままでは蝦夷社会が崩壊すると危機感をいだいた蝦夷の部族たちは、一致団結して朝廷を陸奥の地から退けようと決意する。本書は、そのまとめ役となった蝦夷の若き英雄、阿弓流為(アテルイ)の、まさに戦いに明け暮れたその生涯を描いた作品なのだ。

 圧倒的な数をもって攻め上ってくる朝廷軍を前に、常に「守るための戦い」を徹底し、地の利を生かした策をもって敵を翻弄しつづける阿弓流為たち蝦夷軍の快進撃は、それこそ胸のすくような展開であり、本書のいちばんの読みどころでもあることは確かだが、なにより阿弓流為たちの志こそが熱い。彼らの戦いは朝廷軍のそれとは異なり、けっして何かを略奪するためのものではない。そして、これが重要なところであるが、蝦夷の民たちは、自分たちの土地や、ましてやそこから算出される黄金を守るために戦っているわけでもない。ひとたび戦となれば、村や畑は焼き払われ、人々の心も荒廃していくことを彼らは知っている。しかも、蝦夷を人とも認めていない朝廷を屈服させ、蝦夷侵略をあきらめさせるには、けっして負けない戦いを何十年もつづけていかなくてはならない。あまりにもハンデの大きい、一度でも負ければすべてを失ってしまう、しかも何も得るところのない戦いを、それでも阿弓流為たちがつづけていく理由はただひとつ、蝦夷の心を守るという一点に尽きるのだ。それは、自分たちを獣としか見ていない朝廷に、自分たちもまた人間なのだと認めさせるための戦いでもある。

 力だけでは強大な朝廷軍にはけっして勝つことはできない。そもそも兵士の数が違いすぎる。じっさい、朝廷軍は退けられるたびにその数を二万、五万、十万とつぎ込んで攻めてくる。それゆえに蝦夷の戦いは、知略に長ける母礼(モレ)の策や工夫に寄るところが大きい。そういう意味では本書の戦いは力と智の戦い、という構図をとっており、だからこそ数の上では圧倒的な不利をひっくり返していく展開が面白いのであるが、朝廷軍と蝦夷軍という対立の図は、力と智であると同時に、利己主義と利他主義との戦い、力と心の戦いだと言うこともできる。

 本書における阿弓流為の立ち位置ははっきりしている。無用な殺生はできるだけ避ける。内通した飛良手(ヒラテ)に自分たちの戦いの意義を説き伏せ、約束したことはたがえず、敵の捕虜も丁重に扱う。人を裏切り、弱きものたちから略奪し、力でもってねじ伏せようとするのが人間であるなら、人を信じ、弱きものを守り、あくまで自分たちが自分たちでありつづけるために戦うのもまた人間である。力にはけっして屈しない。またその力をけっして利己主義のためには使わない。それが蝦夷の心であり、しいてはまぎれもない人間としての心でもある。だからこそ本書を読む人間に、その志は熱く響く。

 歴史を扱う物語の難しさは、すでにその結末が確定しているという点であろう。史実によれば、阿弓流為らの「叛乱」は、最終的には征夷大将軍に任命された坂上田村麻呂のよって鎮圧されたことになっている。けっきょく、蝦夷軍は朝廷に勝つことはできなかったわけであるが、その史実を受け入れつつ、なお阿弓流為の「蝦夷の心を守る」という志を貫かせるために、著者がどのような結末を用意したのか――それはぜひとも本書を読んでたしかめてもらいたいところであるが、まさに見事というほかにないものであることだけは保証しよう。また、阿弓流為の最大のライバルとなる坂上田村麻呂もまた、敵でありながら阿弓流為ら蝦夷を対等の者と認め、彼らの良き理解者であると同時に最強の将でもある、という設定で、これもまた心憎い演出だと言わねばなるまい。

 人間は弱い。弱いがゆえに、強大な力を前にすればたやすく屈し、その心を凍りつかせてしまう。蝦夷を恭順させ、自身の本懐をとげた天皇でさえ、晩年は悪霊たちのたたりを極度に恐れるようになったという。「心を守る」と口で言うのは簡単であるが、それを実行するのは並大抵のことではない。戦いというのは、何も武器をとってぶつかりあうことだけではない。ともすれば打ち砕かれそうにない人間の尊厳を守りとおし、理不尽な事柄にはけっして屈しない、という志をもちつづけることもまた、ひとつの戦いである。本書における阿弓流為たち蝦夷の民の生き様は、現代を生きる私たちが忘れかけていた何かを、きっと思い出させてくれるに違いない(2004.08.10)。

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