【河出書房新社】
『夏至南風』

長野まゆみ著 



 「夏至南風」と書いて「カーチィベイ」と読む。どこの国のことばかわからないが(あるいは著者の造語かもしれない)、本書の説明によれば、夏になる直前に吹く、湿気を帯びた南風のことを指すらしい。夏至南風は街を不快な熱気で覆い、たった一晩で果実を腐乱させる――そんな「夏のまえぶれの腐敗した季節」の出来事が、たんたんと描かれた小説である。
 とにかく全篇にわたって人がからむシーンが出てくる。それも、男と男がからむシーンが圧倒的に多い。そして、そんな猥雑さの漂うシーンが続出するにもかかわらず、そこには不思議なほど人間味がない。ただ機械的に人と人が行為におよんでいる、という感じがするのだ。それは、主人公であり、一人称で描かれる鈷藍(クーラン)という少年の性格のせいなのだろう。彼自身は「聞くことも話すこともしない」。人の話し言葉が理解できない(ただし書き言葉は理解できる。つまり筆談はできるのだ)のに、知能には何の問題もない、という設定は、彼を極端なまでに従順で無感情な性格に仕上げている。さまざまな人物からレイプまがいの行為を強制される鈷藍だが、そこには何の感情も沸くことがない。彼の目は無機質なまでに相手の体を観察し、自分のされている行為を客観的に判断する。ただそれだけだ。そこには一種の諦念のようなものさえ感じられる。

「碧夏、誰かが自分のことを愛してくれるんぢゃないかって、きみはまだ期待しているんだろう。やめてしまえよ。そんなこと、意味がないから」

 彼は、筆談以外の方法で「会話」のできる数少ない人物である碧夏(ビーシア)に、そんなふうに「語って」いる。それは、あるいは真実なのだろう。たとえ話し言葉を使うことができても、会話で相手のことを完全に理解することは、けっきょくできないのだから。だが、それではあまりにもむなしい。会話以外の方法がない以上、不完全な道具であろうと人は会話をするしかないのだから。

 鈷藍は「聞くことも話すこともしない」。それは、ある意味死人とたいして違わない。そんな、むなしさにも似た雰囲気が、この小説には終始漂っている。夏至南風がやめば、乾いた夏が大地を癒す。だが、鈷藍の心はまだ癒えることはない。これからも、癒えることはないのではないか、と思う。今はただ、彼の心に吹く夏至南風がやむことを願うばかりだ。(1998.11.07)

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