【小学館】
『ハダシのカッちゃん』

室積光著 



 以前、テレビを見ていたときに、全国で日本の戦争体験を語って聞かせるために尽力している団体の代表が、その活動の意義や活動内容について話していたことを覚えているが、その話のなかで今も印象深く心に残っているのは、肝心の戦争体験を語ることができる人たちが本当に数少なくなってきている、という事実だった。戦争体験を語るという講演自体は、ふたを開いてみると想像していた以上に多くの反響があり、戦争体験を聞きたいという若い人が増えているのは嬉しいかぎりだが、せっかくそうした活動ができる場があると知り、ようやく自分も戦争のことを語っておきたいと決意したお年寄りが、次の講演まで生きていられないことさえあるのだ、という出演者の話は、日本が体験したかつての戦争を語り継ぐこと、生の声を残していくことが、いかに困難で差し迫った問題であるかをあらためて認識させられるものであった。

 2005年は第二次世界大戦が終結し、日本が敗戦を迎えてから60年になるという。私はもちろん生まれていないし、私の両親でさえ生まれたばかりというその時代に、たとえば兵士としてじっさいに戦場で戦っていたという人間は、今ではおそらく80歳くらいの高齢者ということになる。もちろん、私自身は知識のひとつとして、かつて世界では悲惨な戦争があり、日本はその戦争で大勢の犠牲者を出したあげく、敗戦を迎えたということは知っているのだが、聞いた話によると、そうした知識すら知らずに育っている若い人たちも少なくないという。その話のどこまでが真実なのかは、にわかに判断することはできないが、上述のようなことを考えてみると、「日本は急速に戦争を忘れようとしている」と言われたとしても、あるいは不思議なことではないのかもしれない、と思ってしまっている自分がいる。

 本書『ハダシのカッちゃん』は、著者が書いた初の児童書ということになるが、おそらく著者は最初から児童書を書こうと意識して本書を書いたのではなく、むしろ人々の意識から忘れられていく日本での戦争体験のことを物語として書こうと考えた結果として、児童書というスタイルを選んだのではないか、と私は思っている。それはもちろん、私の勝手な想像にすぎないのだが、本書を読み進めていくと、おそらく読み手と等身大であるはずの少年、それも現代っ子である少年を中心にすえることによって、ともすると湿っぽく、あるいは被害者的な側面ばかりが強調されがちな戦争体験が、うまい具合に少年の冒険譚、成長物語として融合していることに気がつくのである。

 じっさい、本書の前半部は、自分のことをあえて「おいら」と呼ぶ少年市川俊明の、ごくありふれた日常生活のこと――それはたとえば、自分が通っている小学校のことや、クラスメイトのこと、家族のことや父親が率いている劇団のことなど、私たちがごくあたりまえのものとして受け入れ、見慣れた子どもたちの生活の一部として認識しているものが中心で、戦争のことなど語られる気配すらない。そこにあるのは、自称「冒険家」の俊明が、これまでの最大の冒険として半ズボンの下にパンツをはかないまま海水浴から帰ることになった顛末を挙げていたりする、のんきではあるが幸せな日本の子どもの生活風景である。ただ唯一、転校生の「ショウちゃん」こと堀翔太郎がいつも裸足でいることを知ったときに、俊明の父親が、昔の小学生はたいてい裸足だったという話を漏らすが、それも戦前の小学生は、という意味であり、戦争のこととは直接関係はしていない。

 戦争のことが物語と大きく絡んでくるのは、本書の後半、夏休みになって俊明がすっかり親友となったショウちゃんと、ふたりだけで宮崎にいる祖父の家に遊びに行くことになったとき、そこで「カッちゃん」と名乗る裸足の少年と出会ってからのことになる。ここで、ようやく本書のタイトルにつながっていくわけであるが、著者が本書のテーマとして選んだ、日本でかつてあった戦争のことへと物語をつなげていくのに、じつはけっこうな回り道をしているのだ。だが同時に、この大きな回り道がもしなかったとしたら、はたして本書を読む子どもたちが、どれだけ「戦争」という重いテーマを、まぎれもなく自分たちの住んでいる国の過去の出来事として受け止めることができただろうか、と思わずにはいられないのである。

 夏休みにふたりが会った「カッちゃん」は、遊びと言えば戦争ごっこしか知らず、撃たれると「天皇陛下バンザイ!」と叫んだり、本物の兵士が使うような言葉をよく知っていたりと、俊明やショウちゃんとはどこか趣きの違ったところがあり、悪く言えばどこか珍妙な存在だ。だが、俊明たちはそんなカッちゃんの珍妙さを素直にすごいと受け止め、旧知の友のように夢中になって遊んでしまう。こうした理屈抜きのつながりは、子どもだからこそ可能なものであることに間違いはないが、俊明はすでに裸足で学校に通うショウちゃんという珍妙な前例を知っており、さらに彼はその裸足で暮らすというスタイルに、あえて人とは違ったことに挑戦する「冒険者」としての要素を見出している。俊明、ショウちゃん、そしてカッちゃん――この三人を違和感なくつなげるための伏線が、じつは巧妙に仕掛けられているのが本書であるが、それはひとえに著者の、本書を読むことになる子どもたちへの配慮以外のなにものでもない。さらに言えば、物語前半の平和な風景は、カッちゃんをめぐる秘密があきらかにされたとき、よりいっそう感慨深いものとして読者の胸に迫ってくることにもなるのだ。

「戦争は……絶対にしちゃあならない。戦争していいことなんかなんにもない」

 これは戦争体験者である俊明の祖父の、理屈ぬきの心の叫びである。はたして今の子どもたちに、かつて日本がしてきた戦争のことがどれだけ理解できるのか――それはすでに大人になってしまった私にはわかりかねることではある。だが、本書に出てくる子どもたちもまた、理屈ぬきに初対面の子どもと仲良くなることができる純粋さをもっていることはたしかだ。理解はできないかもしれない。しかし、本書を読んだ子どもの心に、何がしかのものを残していく可能性は、けっしてゼロではない。むしろ、子どもだからこそ戦争というものの本質を、まさに理屈ぬきで見抜いてしまうことだって、ありえるのではないか。そういう意味で、著者が児童書というスタイルで戦争体験を書くという選択は、じつはこのうえなくベストなものだったという確信が、私にはある。(2006.01.15)

ホームへ