【新潮社】
『人間の壁』

石川達三著 



 小さい頃、将来なりたい職業について考えたとき、大学生だった頃、就職が現実問題として差し迫っていたとき――自分がはたして今後どんな職業につきたいか、ということを考える機会は何度かあったが、ただひとつ、自分はこれだけは絶対にできないだろうと考えていたのが、教師や先生といった他人を教え導くたぐいの仕事だった。これまでやってきたアルバイトに関しても、「家庭教師」という選択肢だけは最初から除外されていたくらいで、これはようするに、自分という人間に対する不信感、自信のなさが根底にあるからにほかならないのだが、そういう意味で、自分の教え方ひとつで大勢の人たちの今後を左右するかもしれない立場にある教師という職業はたいへんな仕事だと思うし、その重責を担っているすべての教師は尊敬すべき人たちだと思っている。だが、同時にこんなふうにも思うのだ。学校の教師とは、いったいどういう立場にいる職業なのだろうか、と。

 そう、ただたんに勉学を教える、というだけであれば、何も教師である必要はない。塾に行って塾講師から試験対策を学ぶのも、通信講座で独自に勉強するのも、勉学という点では同じことだ。そんなふうに考えると、たとえばなぜ学校に通わなくてはならないのか、という命題が、ただ「義務教育だから」という理由だけでは割り切れないものとして迫ってくる。もちろん、備品や設備の点で整った環境を持っており、学校でなければ学べないことが多いのはたしかだが、おそらくそれは瑣末なことだろう。国語や算数といった基礎学力を学ぶ以外に、私は学校で何を学んだのだろう。そして教師たちは、まだ子どもだった私に、本当はどんなことを一番に教えたかったのだろう。

 本書『人間の壁』は、昭和31年から32年にかけて、佐賀県でじっさいにおこった教職員の労働争議、具体的には、県の財政赤字対策という名目で、県内の教職員の大幅な退職勧告を実施しようとしたことに対する休暇闘争の成り行きと、その結果について書いた作品である。公務員であるはずの教師たちが、かつてこの日本でストライキを起こしたことがある、という事実そのものが大きな驚きであり、そういう意味では、戦後の歴史的記録のひとつとしてとらえることもできるのだが、本書のテーマはむしろ、そうした闘争の背後に垣間見える教師としての本分、「教師とは何か」「教育とは何か」という本質的な部分にこそある。

 本書に登場する志野田ふみ子は、小学校教師として子どもたちと接することに大きな生きがいを求めている純朴な三十代の女性であったが、あるとき市の教育委員会から退職勧告を受けることになる。教師としての落ち度があったわけではなく、その勧告に彼女は動揺させられるが、その後日本教職員組合の活動を通じて、その勧告の裏に、今の民主教育のありかたに危機感をいだく保守政党の政治的圧力がからんでいることを知ったふみ子は、自分たちの利益のために法律をも歪めてしまうような相手から真の教育、そして何より子どもたちの未来を守るためには、そうした圧力と徹底して戦わなければならないことを痛感する……。

 ここまであらすじを紹介すると、まるでひとりの女教師の立場を中心として、いかにも反社会的な闘争活動を擁護する左翼的な内容のように思われるかもしれないが、本書をよく読んでいくと、その背景には日本の戦後教育に関するふたつの大きな思想の対立が絡んでいることがわかってくる。それは、敗戦後になってようやく教育界に根づきつつあった真の民主教育――児童の自主性をやしない、批判力を育てる、本当の意味で平和と平等を尊ぶような新しい教育の流れと、あい変わらず盲目的な親孝行を説き、たとえ間違ったことであっても何も考えずに国家や天皇につかえることをよしとする、明治時代から脈々とつづいてきた戦前の教育との対立である。どちらがより民主的ですぐれた教育であるかは言うまでもないことであるが、問題なのは、本書の時代において、前者のような教育を支持する人たちが、教育界の末端にいる若い教師、個々ではいかにも無力な個人であり、後者を支持する人たちが、資本主義を推し進めようとする保守政党や教育委員会といった権力者、そして新しい教育に関して無理解な父母といった人たちだということである。

 今の日本は民主主義国家であると言われている。つまり、間違ったことであれば間違っていると自由に発言することが許される社会である。だが現実はかならずしも真の民主主義が浸透しているとは言いがたい。言いたいことが封じられ、自由と言いながらその動きを束縛するような圧力は、今でさえたしかに存在する。日本の教育問題は今もなおさまざまな批判や問題点が山積みされている感があるが、その原点は、本書でとりあげられた事件の中にすべて詰まっているように思えてならない。

 ひとりの教師に60人もの生徒を担当させるすし詰め教育、法律で認められているはずの昇給制度はきちんと機能せず、貧困であるうえにあたり前のように時間外勤務を迫られる教師たち――本書のなかでは、産休がとれないまま過労で死亡するような教師が出てくるが、そうした劣悪な労働条件のなかにあって、それでも自分たちが教師であること、日本の未来を担う子どもたちを教え導くことに誇りをもっている人たちが真に憂いているのは、何より担当する生徒全員をきちんと教育していくことができない現状への不満であり、またそもそも守られるべき教育の自治と独立が、政府や財閥といった一部の団体によって大きく影響されてしまうことへの怒りであり、それが今回の休暇闘争へとつながっていることを本書は指摘している。

 はたして、教師とは労働者なのか、あるいは聖職者なのか――志野田ふみ子は組合員のひとりとして、個々の教師の権利を守るための闘争活動の必要性を実感しながらも、常に迷いつづけている。ほんとうは、政治的なことなど何も意識することなく、ただ生徒たちの教育に情熱を傾けたいと考えている、ひとりの純朴な教師にすぎないのだ。そして彼女に関係してくる教師として、あくまで職業としての教師、生徒たちに効率的に勉学を教えていき、それ以外のことにはできるだけ関わらないような態度を示す一条太郎と、あくまで「聖職者」としての教師にこだわり、教育を子どもたちの正しい成長を願うものとしてとらえ、そのためにじっさいの仕事以上に子どもたちと関わっていこうとする沢田安次郎という、ある意味で両極端な性質のふたりを登場させている。この構図は、おそらく今もなおつづく教師という職業の大きなジレンマの象徴だと言えるだろう。そして、その問題は今も解決されてはいない。

 何が正しくて何が間違っているのか、その判断能力を育て、勇気をもって自身が正しいと思うことを実行し、もしそれが間違っているとわかったなら、自己反省をしてあらためることを厭わない――それが真の民主教育であるとすれば、本書のなかで歩んでいった志野田ふみ子の足跡は、まさに教師としての彼女の成長でもある。そう、本書はなによりひとりの女教師が、夫との離婚や生徒の無慈悲な死、そして同じ教師である沢田安次郎への淡い恋心といった、さまざまな体験を経ての成長物語としても読むことができる作品なのだ。貧困な家庭のなかで、まともな教育の行き届かない生徒たちのことに一喜一憂し、新しい教育に関して無理解な批判をする父母たちに打ちのめされながらも、それでも自分が担当した子どもたちのたしかな成長を心から喜ぶ彼女の姿は、きっと読者に大きな感動を呼び起こすに違いないと確信する。(2005.02.14)

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