【文芸社】
『切手のない手紙』

服部泰平著 



「戦後」という言葉がある。戦後五十年、戦後初、戦後最大級――日本という国は、何かというと「戦後」を基準に物事を判断しようとする傾向にあるようだ。かつて、日本が大日本帝国と呼ばれていた頃に経験した第二次世界大戦、とくに、日本がアジア保護の名のもとに、結果として世界じゅうを相手に戦わなくてはならなかった太平洋戦争における、無残な敗戦以降の時代を「戦後」と呼ぶのは、いまさら言うまでもないことであるが、それ以上に「戦後」という言葉には、まるで私たちがまさに今住んでいる日本が、「戦後」とともに突如として存在をはじめたかのような雰囲気を持ち合わせているのも事実だ。

 敗戦によって、それまでの大日本帝国が解体され、瓦礫の中から驚異的な復興を遂げた、という意味で、今の日本が「戦後」から存在をはじめたという認識は、ある意味正しい。だが、何の理由も土台もなく存在を開始するものなど、この世にはけっしてありえない。今の日本の形には、必ず何らかの理由――意味づけがあるはずなのだ。なぜ、この国が存在するのか、そしてなぜ今この国はこんなにも行き詰まっているのか――「戦後」という言葉に、その「なぜ」を深く考えることなく切り捨ててしまおうとする、何らかの意図を感じるのは、はたして私だけであろうか。

 本書『切手のない手紙』に書かれているのは、戦後五十五年という長い時間を経て受け継がれていく一通の手紙にまつわる物語であるが、それ以上に本書は、さまざまな問題を抱えて疲弊してしまった今の日本の姿――かつて戦場で命がけで戦った兵士たちが夢みた未来とは、あまりにもかけ離れた、閉塞感で身動きがとれない日本という国が切り捨ててしまった「なぜ」に、あらためて目を向けることで、現状の突破を試みようとする作品だと言うことができるだろう。

 昭和十九年十月、有史以来最大の海戦と後に称されることになるレイテ海戦において、鳴海勝一機関員が乗り込んだ空母、瑞鶴は、しかし搭載する戦闘機もその乗組員も存在しない、まさに囮としての役割のみを背負わされた艦隊の一隻であった。米軍の猛攻を受けて炎上する瑞鶴、司令室との通信を絶たれ、機関室に閉じ込められるという事態に死を覚悟した鳴海は、一通の手紙を詰めた小瓶を海に投げ入れた。戦場に赴く直前に婚約した雪子への手紙――必ず生きて帰ると約束した、妻になったばかりの恋人のもとに、いつか届くことを願って。

 それから五十五年が過ぎた世紀末、手紙は奇しくも五十になろうとするひとりの男、村上義純の手の内にあった。八年前の海水浴で偶然小瓶を見つけた義純は現在、長年勤めた会社をリストラされ、息子は自分の部屋に引きこもったまま、妻の崇子ともほとんど会話がないという、崩壊の一歩手前にまで陥った家族の冴えない主人と化していた。ただ流されるままに流れ、負けるままに負けつづけ、八方ふさがりとなってしまった義純は、ふと「とびっきり馬鹿なこと」を積極的にやろうと、たったひとりで家を出た。手紙の受取人である「雪子」を見つけ出し、手紙を届けることを決意して……。

 手紙の運び屋として旅を続けていく村上義純を中心とする現代と、否応なく戦争に巻き込まれていく鳴海勝一を中心とする戦時中という、ふたつの時代が交錯する形で物語が進んでいく本書を読んでいると、その時代背景、人のあり方、感情といった点で、ふたりの生きた時代がまさに対極を成すような形で描かれているのがわかる。それは、単純に「戦争と平和」という言葉で置きかえられるような対極ではなく、ひとりひとりの人間が、血と肉をそなえた、まぎれもない一個の人間である、という事実の認識という点での対極である。

 国家のためというお題目のもと、個人が個人として生きることが許されなかった空気の中で、それでもなお個人であろうともがき、また自分がいつ死んでもおかしくない、という極限状態にあって、確かに自分は生きている、という麻薬にも似た感覚を日々実感しつづけることを強制された戦時中と比べ、私たちが生きる現代は、法律によって個人の権利が認められている時代である。だが、戦争による不条理な「死の恐怖」を追い払った、平和と言う名の堕落は、少しずつ人々から「生の実感」を奪い取っていく。戦争の形も冷戦が事実上終結してからは、もっぱらインフォメーション・ウォーと呼ばれる情報戦が主流となり、科学技術の発達はボタン一発で地球を死の世界に変えることを可能にした。そして、ネットの爆発的な普及は、「生の実感」をますます私たち自身から遠ざけてしまう。ただ生きるだけでは個人としてさえ認められない現代――人々は躍起になって「自分らしさ」を追い求め、それができない人たちは金や権力で虚しい自己表現を繰り返し、そしてそれすら許されない大多数の人たちが、自分たちの立場を確かめるためにさらに弱い者を差別する現代において、かつての日本が切り捨ててしまった戦争の記憶は、いったいどのような意味を持って立ち表われることになるのだろうか。

 戦争は悲惨です。私自身が最もよくわかっている。しかし悲惨だからといって目を背けることは全く無益なことだ。なぜ戦ったのか、なぜ多くの友が死んだのか、見つめなければならない。――(中略)――あの時、確かに必死で戦った。だが決死ではなかった。誰も死なせたくはなかった。生きるために、生かすために戦った。死ぬためじゃない。

 私たちはある意味で、今の破壊を望むところがある。このどうしようもなく閉塞してしまった世界を変えたい、という思いは、ある者にとっては戦争ですべてがメチャメチャになればいいという思いであり、ある者には世紀末の破滅予言を信じたいという願いであり、ある者には自ら命を絶つことでこの世界から逃げ出すことができるという絶望的な期待であり、ある者にはただひたすら現実を拒否して内に閉じこもる遮断行為である。そして、それが間違いである、この世界は生きるだけの価値がある、と誰も胸を張って言うことができないのが今の世の中だ。だが、そんななかにあって、「生きる価値」を探し求める人たちが確かに存在するのも事実である。本書では、自分たちが経験してきたレイテ海戦の謎を追うことで、戦争そのものに対する意味を問いつづける新庄のような人間がそれにあたるだろう。それはあるいは、昭和天皇の戦争犯罪を訴えつづける人たちの気持ちにも通じるところがあるかもしれない。彼らは何も、昭和天皇にすべての責任を押しつけたいわけではない。ただ、何らかの形で自分たちの行なってきた戦争というものの、意味づけをしたいだけなのだ。

 けっして壮大とは言えない旅の途中で路銀を使い果たして路頭に迷い、空腹と体調不良で苦しみながらも、それでも受け継いだ手紙の答えを得るために旅をつづける義純。彼の旅もまた、新庄たちと同じように、個人としての自分を見つめなおすひとつのきっかけでもあった。はたして、時間を超えて彼の手に渡った手紙は、無事届けることができるのか、そして本書によって過去から未来へと受け継がれたものは何だったのか――本書を読むすべての人が、そのことを心にとどめておいてもらいたいものである。(2000.12.12)

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