【中央公論新社】
『逃亡くそたわけ』

絲山秋子著 



 私も含めて多くの人たちが、大なり小なりいろいろな問題をかかえて生きている。その問題は、その気にさえなれば解決することができる場合もあれば、容易には解決できないたぐいのものもある。解決できる、ということは、そうするための方法についてある程度見当がついている、ということであり、あとはそれを実行するかどうかということになるが、すべての問題が、そんなふうに解決の糸口が見えているというわけではない。

 たとえば、自身の将来に対する漠然とした不安について。ニュースや新聞の記事を見ても明るい見通しはなく、むしろますます悪化する環境問題や先の見えない不景気、教育の問題や少子化による高齢化社会など、問題は山積みであるにもかかわらず、その対策として何をどうすればいいのかの見解はなく、ましてや一個人として何をしたところでどうにもならないという無力感ばかりが募ってくる。問題はたしかにある。にもかかわらず、それについて考えれば考えるほど泥沼にはまっていくかのような気にさせられてしまうのは、その問題があまりに漠然としているがゆえのものだ。だが、漠然としているにもかかわらず、不安や焦りといったマイナスの感情はしっかりと増大してくるからタチが悪い。

 こうしたタチの悪い問題について、私たちはどうするのかといえば、とりあえず判断保留をする。ようするに、忘れてしまうのだ。もちろん、忘れたからといって問題そのものがなくなるわけではない。だが、その問題に対してとりあえず打つ手がない、ということであれば、それについて考えるのは無意味だという判断をしてしまう。掃除をしていてあまりに汚れた場所を発見したときの「見なかったことにしよう」というある種のいい加減さは、私たちが考えている以上に重要な能力である。もしそれができないと、私たちはありとあらゆる問題に対して、納得のいく解決方法が見つかるまで暗中模索を繰り返さなければならなくなる。そして、そんなことはとうてい不可能なことであるし、そもそも私たちの精神がもたない。

 しゃがんで線香花火を見つめながら、明日はどうなるんだろう、と思った。
 わからん。
 これからどうなるんだろう。
 わからん。

 本書『逃亡くそたわけ』に登場する語り手の花田は、福岡にある百道病院の患者である。患者といっても、病んでいるのは体ではなく心のほうであり、百道病院とは九州最大の精神科の単科病院だ。躁状態で入院することになった語り手は、ただでさえ興奮が収まらず、寝ることも食事をすることもままならないだけでなく、幻聴と幻覚にも悩まさせており、それが躁をさらに悪化させ、何をしでかすか本人にも判らなくなってしまうような状態だった。だが、入院はしたものの、病気のほうはいっこうに改善される気配がない。人生でたった一度しか来ない二十一歳の夏――このままだと、退院の許可はおろか、外泊の許可さえとれないまま、監獄のような精神病院のなかで夏の終わりを迎えてしまうことになる。さらに、処方されるテトロピンに「固められる」ことにもいい加減うんざりしてしまった語り手は、鬱病で同じ病棟に入院していた「なごやん」こと蓬田司という青年とともに、病院を抜け出して逃亡をはかることにした。

 語り手がなごやんに病院から逃亡しようと誘った理由も、なごやんがその誘いに乗った理由も、じつのところはっきりしていない。すべてはとっさの事だったと言えば、まさにそれだけのことであるし、精神を病んでいる人たちの考えていることを、そもそも理屈づけようとすること自体が無茶なことでもあるのかもしれない。ただ、病気を治すために入ったはずの病院での治療で、自分が自分でなくなってしまうかのような焦燥を感じた彼女は、とにかくそこから逃げなければ、という衝動に駆られて、まったく今後のあてもないままに九州を南へ、南へと下っていく。それは、見た目には男女の逃避行であるが、その言葉に刺激されるようなロマンスは皆無だ。

 以前に紹介した『海の仙人』『袋小路の男』でも共通しているように、著者の作品は、一組の男女の関係を描いているが、そこには私たちがついつい想像してしまうような関係、たとえば恋人同士であるとかいった、いかにもありがちな関係ではけっして「固められ」ないものがあり、それを小説という形でとらえようとしているところがある。そういう意味で、本書はそのテーマが如実に結実した作品だと言うことができる。恋人同士ではありえない。友人というのとも違う。同じ精神病院で、ひとりは躁、ひとりは鬱の男女。しかも、女のほうは逃げる気まんまんなのに、男のほうは戻ったほうがいいとか主張している。だが、女のほうはそんな男の言うことは聞く耳もたないし、男のほうもなんだかんだ言いながらも、自分の車を出し、逃亡資金すら提供して、けっきょくのところ女の手助けをしてしまう。

 逃げたところで病気が治るというわけではない。じっさい、語り手がしょっちゅう悩まされている幻聴は、物語のなかでいつもついてまわっている。だが、そうした問題はとりあえず判断保留をしたうえで、ふたりの逃亡劇はちょっとした九州の観光旅行のような様相を呈していく。なんとも不思議なことであるし、またおかしなことでもあるのだが、そうした状況が成立してしまうところが、本書のひとつの読みどころでもあるのだ。先のことなどわからない。現実を見つめてみるなら、いずれ病院側はふたりの逃亡に気づくだろうし、そうなれば大騒ぎになることは必至だ。くわえて、逃亡の途中で窃盗だの無免許運転だの、無銭飲食だのといった軽犯罪を、何の意味もないのに犯したりしている。だが、少なくともそうした行動にともなってくるはずの数々の面倒ごとは、今のところ彼らのもとには届いては来ない。だからこそ成立する、なんとも暢気な逃避行――それは、何かにつけて判断保留をしながら生きている私たちのふだんの生き方と、驚くほど共通したものだ。

 けっして既存の価値観では測ることのできない人間関係――私たちがついつい類型として当てはめていこうという形から、本書の物語は常に逃れていこうとするところがある。そしてよくよく考えてみれば、たとえばある人が鬱病であるとか、躁病であるとかいったカテゴリー分けは、私たちが何らかの異常な状態を理解したい、把握したいという欲求から生じたものであって、けっしてそうしたカテゴリー分けが物事の本質を指しているというわけではない。本書を読んでいくと、そうした人間の理屈からどうしてもはみ出さずにはいられない何かが見えてくる。そこにはもしかしたら、私たちが人類の発展という前進の過程で、とりこぼしてしまった大切なものが含まれているのかもしれない。(2009.01.20)

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