【文藝春秋】
『対岸の彼女』

角田光代著 
第132回直木賞受賞作 



 私という主観が見ている世界と、他の人が見ている世界は、かならずしも同一ではない。同じものを同時に見ているにもかかわらず、そこから得られる情報は人によって異なる、というのは、人間が成長し、世界が自分を中心に回っているわけではないと知るにつれておのずとわかってくることであるが、そういう認識にいたるには、自分以外の多くの人たちと出会い、自分の持つものと相手の持つものを比較する、という観点を必要とする。人は、見方や考え方の異なる人たちとの出会いをつうじて、まぎれもない自分自身というものを形成していく生き物であり、そういう意味で私たちは、他者の存在なくしては自分を維持していくことができない、と言うことができる。

 他者の存在は、自分を客観視する視点を与えてくれる。だが、自分の見ている世界とはあまりにもかけ離れた主観をもつ他人とのつきあいは、ときに双方に摩擦を生じさせ、それだけで疲弊してしまうものでもある。自分自身のことでさえときどきわからなくなる――自分でも思ってもないような言動をしてしまうこともあるというのに、他人がどのような主観をもち、この世界をどのように見ているのかなど、完全に理解することなどできはしない。たとえ、一時期は理解できたと思うときがあっても、かならずそれが一面的なものでしかないということに、私たちはいずれ気づくことになる。

 相手とより深くかかわっていきたい、相手のことをもっとよく知りたい、という欲求は、私たちのなかにたしかにある。人はひとりでは生きられないし、ひとりでいつづけられるほど強い心をもっているわけでもないからだ。だが同時に、他者の見知らぬ主観とのかかわりを怖いと思う心も、たしかにある。本書『対岸の彼女』は、言ってみれば女性どうしのなかで育まれる友情の行方を描いた作品ではあるが、その関係を単純に「友情」とひとくくりにしてしまえるのであれば、おそらく本書という作品は生まれてはこなかっただろう。そして、そういう意味で本書のタイトルは非常に深い意味をもつことになる。

 専業主婦の田村小夜子は三十五歳。五年前に映画の配給会社で知り合った修二と結婚し、長女のあかりも三歳になるが、大勢の人たちが集まるところで必然的に生まれてくる微妙な派閥や対立関係といったものに、どうしてもなじめないでいる自分を昔から感じていた。職場でも、公園での母親グループのなかでも、彼女は対立するどちらのグループにも深くかかわることはせず、適度の距離を置きつつどちらからも嫌われないように気をつけていたが、そうした努力はときに空しく、またどっちつかずの弱い自分を嫌悪するようなところも彼女は感じていた。

 そうした人間関係のわずらわしさから逃れるようにして結婚し、専業主婦になった小夜子だったが、夫の子育てへの無理解や姑の嫌味など、どこか満たされない、わかってもらえないというストレスは人並みにある。一念発起してふたたび働こうと決意した小夜子は、ベンチャー会社「プラチナ・プラネット」の女社長である楢橋葵に見込まれ、新事業として計画していたハウスクリーニングの仕事をはじめることになる。

 人と人との関係において、それがどれだけ小さな集団であったとしても、そこに何らかのグループ意識や、縄張りみたいなものが生じてしまうのは人間社会の必然だ。本書はそうした人間社会での関係性という枠で、登場人物の性格を特長づけていこうとする。小夜子の場合、人と深くかかわるということを避けていながらも、完全に孤立するだけの強さも勇気ももてないまま、中途半端なところでうろうろするような女性像が、物語のなかで自然と見えてくる。そうした人の描き方の巧みさが、本書の大きな特長のひとつである。

「私はさ、まわりに子どもがいないから、成長過程に及ぼす影響とかそういうのはわかんない、けどさ、ひとりでいるのがこわくなるようなたくさんの友達よりも、ひとりでいてもこわくないと思わせてくれる何かと出会うことのほうが、うんと大切な気が、今になってするんだよね」

 いっぽうの楢橋葵は、小夜子と同い年でありながら会社を起こし、開けっぴろげで社交的、我が道を突き進んでいくだけの強さと豪快さをもちあわせた女性として、小夜子の目には映る。専業主婦と独身の企業家という立場の面でも、またそれぞれの性格という面でも、ふたりは対極に位置する存在である。しかし、本書を読みすすめていくとわかってくることであるが、葵という女性は、けっして昔からそうした性格をもちあわせていたわけではない。本書は小夜子を主体とする現在の物語とはべつに、葵を主体とする過去の物語が交互に展開していくという構成をとっており、その過去の話のなかでは、高校生の葵はどちらかといえば今の小夜子とよく似た性格の女の子として書かれているのだ。そして、高校生の葵に大きな影響をあたえた友だちとして、野口魚子(ナナコ)が登場する。

 本書は女性どうしの友情を描いた作品だ、と前述した。だが、現在における小夜子と葵との関係も、過去における葵とナナコとの関係も、最初はうまくいっていたのに、より深く相手のことを理解したいという段階になったときに、お互いのあいだにあるさまざまな差異がふたりの友情に齟齬を生み、しだいに相手のことがわからなくなって、やがて離れていってしまう。そのときは、たしかにつながっていたと思っていたにもかかわらず、ちょっとしたことで疎遠になったり、あるいは二度と修復できないような痛手をこうむってしまったり――それは、私たちのこれまでの人生のなかでも、誰もが一度や二度は苦い思いとともに経験したことのある事柄ではあると思うのだが、そうした経験を何度も繰り返しながらも、それでもまた同じように誰かと出会い、その人のことをもっとよく知りたい、と思わずにはいられないのは、どうしてなんだろう、というひとつの命題が、本書のなかにはある。

 過去において人との距離に人一倍敏感で、学校で仲間はずれになることを怖れるあまり、独立独歩で相手にどんなふうに思われてもまったく気にする様子もないナナコとの関係を表面上は隠していた葵が、現在においては小夜子に対して、まるで自分がナナコであるかのように振舞っている――そこになんらかのつながりがあるとすれば、それはどういうものなのか、という疑問は当然生まれてくることになる。だが、本書を読み終えた私が思うに、それは疑問と大上段にかまえるような代物ではないのだ。けっきょくのところ、人は築いては壊れたり、自然と消滅したりする他人との関係を踏まえ、あるいは教訓として、あるいはふたたび前に進むためのエネルギーとして、よりよい関係を目指して他者と出会っていくしかない。それは人として、人間社会にかかわって生きていく以上、必然的に私たちの誰もが通るべき道である。そして、だからこそ本書は多くの人の共感を呼ぶ作品として完成していると言える。

 他人のことを完全に理解することは不可能だ。だが、それでも私たちは他人と歩み寄り、ともに進んでいくことができる。そしてそうした思いは、けっして光り輝いていたとは言えない、過去の失敗を受け入れてはじめて成立することでもある。ナナコから葵へ、そして葵から小夜子へ、時間を超えて人と人との関係はたしかにつながっているし、お互いに影響しあっている。それは、私たちが思っているほど悪いことではないはずだ。(2009.06.14)

ホームへ