【新潮社】
『剣客商売』

池波正太郎著 



 以前紹介した誉田哲也の『武士道シックスティーン』は、女子高生の剣道部における青春を描いた作品であるが、その主人公のひとりは、もともと個人で経営している剣道道場で腕を磨いていた、という設定になっている。読んでいるときはあまり気にならなかったのだが、あらためて考えてみたときに、個人が「剣道」という技能で生計を立てていこうとしたときに、道場を開き、生徒にその技術を教えるという形で金銭を得るという道は、じつはものすごく大変なことではないか、と思うようになっている。

 今の時代における剣道が、ある意味でスポーツとしての側面が強いのは、武器が真剣から竹刀に変わり、防具を身につけることが基本となったことからも見て取れる。剣道を習おうという人たちの目的も、その技術で敵を殺すためといった殺伐したものではなく、もっと精神的な充足感や、あるいは健康維持といったものが主流だと思われる。何より今の世のなか、「剣の腕が立つ」という技能に対する需要が強く必要とされているとも思えない。もし必要とされているとすれば、それこそ戦国時代にまで遡らなければならなくなるだろう。剣の腕が立ったとしても、その純粋な使い道がほとんどない、というのが現状だと言える。

 今回紹介する本書『剣客商売』の舞台でも、じつは現代と似たような事態が起こっている。時は江戸時代の中期、徳川の将軍も十代目になり、老中の田沼意次の治世により天下泰平の世のなかが続いている。本書に登場する秋山父子――六十歳になる小兵衛とその息子の大治郎は、いずれも凄腕の剣術の持ち主ではあるのだが、このシリーズが開始した時点で小兵衛はすでに道場を畳んで隠居、大治郎のほうは剣客として、無外流の剣術道場を構えたものの、半年経ってもひとりの弟子もいないというありさまとなっている。

「――戦のない百何十年。けっこうなことよ。なればよ、大治郎。さむらいの腰の刀も……そしてな、さむらいの剣術も世わたりの道具さ。そのつもりでいぬと、飢死をする」

(『女武芸者』より)

 短編集という形で剣客親子の活躍を描いた本書は、基本的には理不尽な犯罪行為を未然に防いだり、隠れた悪事を暴きだして成敗する、という勧善懲悪の王道をいくストーリーであり、それだけに難しいことを考えずに素直にその活躍を喝采することができる作品ではあるのだが、その根底には小兵衛や大治郎をはじめとする「剣客」たちの、剣に対する考え方がしっかりと根づいており、それがこの物語に大きな深みを与えている。

 彼らが生きる江戸中期は、上述したとおり天下泰平の世のなかであり、いかに剣術にすぐれ、学問のある剣客であっても、その腕を買われて大名や旗本に召抱えられるという幸運など滅多になく、その多くがごろつき浪人となって、むしろ悪事に手を貸すということのほうが主流になっているという現状がある。そんななか、かつてはひとかどの剣客として江戸の諸大名や旗本の屋敷に出入りし、それゆえに町奉行所やその下部組織である御用聞きといった方面にも顔の広い小兵衛は、あっさりと剣術から身を引いて、四十近くも年の離れた女性と所帯をもっていちゃいちゃするという泰然自若ぶりであり、いっぽうの大治郎は、あえて望んで剣客としての道を歩む決意をし、江戸に道場をかまえる前は諸国をめぐって剣の修行を積んできた生真面目な青年として書かれている。

 ベクトル的には正反対の方向を向いている親子ではあるが、少なくともこのふたりは、身につけた剣術を悪事をはたらくという方向では使わないという点で共通している。これは『女武芸者』において、その剣の腕を見込まれた大治郎に対して、ある人物の腕をへし折ってほしいという依頼を、その高額な報酬にもかかわらず断るという姿勢からも見て取れるし、小兵衛にいたってはふだんは剣客としての気配すら感じさせないような暮らしをつづけている。ただし、何か困った事態が起きたりした場合に、何かと上に顔の広い小兵衛に相談が持ちかけられ、そのさいに必要であればその剣の腕を振るうことをためらわないだけの気概は持ち合わせている。

 本書を読んでいて感じるのは、小兵衛は剣客としての歳月を重ねてきただけに、いかにも世のなかの酸いも甘いも噛み分けてきた老獪な部分もあるが、大治郎については、たしかにその剣の腕前は凄いものがあり、また彼自身がさらに剣術に磨きをかけていこうという姿勢も見せているのだが、今の世のなかが、たんにそれだけではやっていけないということに、少し無頓着なところがあったりする。彼の剣術道場にしても、それで金を稼ぐというよりは、弟子を鍛えるということを第一に考えてしまい、せっかく弟子入りしてもその修行の厳しさにすぐにやめていってしまうのだ。

 個人道場で暮しをたてていくからには、弟子たちを適当にあしらい、たまさかには一つ二つ打たれてやって、弟子のきげんをとるのが当節なのである。

(『剣の誓約』より)

 そんな大治郎について、小兵衛は基本的には「静観」のかまえを崩さず、剣術についてはとくに手や口を出そうとはしない。だが、たとえば大治郎が命を狙われることになる『まゆ墨の金ちゃん』では、その事実を知りながらあえて大治郎には語らず、「そのくらいの危機は剣客であれば自分の力でなんとか切り抜けるべき」と突き放しはするが、それが剣客の生き方としては正論ではあっても、それでもやはり心配になって大治郎の道場を密かに見張っていたりするという親馬鹿ぶりを見せたりもする。このあたりの揺れ動く心境も、本書の読みどころのひとつではある。

 剣の道という点では、たとえば『剣の誓約』のように、剣客であるがゆえに命をかけた勝負から逃れられないという厳しい運命を書いたものや、『女武芸者』で登場し、その後のシリーズでも主要な人物として何度も登場する男装の女剣士、佐々木三冬が属している剣術道場での後継者争いを書いた『井関道場・四天王』など、純粋に剣客が絡むものがあるかと思えば、とある事情で辻売りの鰻屋を十日で鍛え上げるという『悪い虫』や、逆に怪力女が武士たちを投げ飛ばしたりする『深川十万坪』などの作品もあり、良きにしろ悪しきにしろその時代の剣の道、剣をもつ者たちのさまざまな姿を見ることができる。そこにあるのは、ただたんに剣が強い「剣客」という記号ではなく、まぎれもなく血の通った人間としての剣客の姿である。

 純粋に剣術の技能だけでは食べていけない平和な時代において、人殺しの道具である剣を何のために振るうのか――そんなふうに考えたとき、「剣客商売」というタイトルが、まさに本シリーズのすべてを物語っていることに気づかされる。秋山父子をはじめとする、江戸の剣客たちの趨勢をぜひ堪能してもらいたい。(2014.09.23)

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