【集英社】
『粗忽拳銃』

竹内真著 
第12回小説すばる新人賞受賞作 



「粗忽」などという言葉は、今では文章においても話し言葉においてもあまり使われることのなくなったものであるが、もともとは「あやまち」とか「失敗」とかいう意味をもった単語であるらしい。そこから、たとえば軽はずみな言動をしたり、そそっかしい性格の人のことを「粗忽者」と呼びあらわすようになるのだが、そこにはけっしてその人物を貶めるような雰囲気はなく、むしろ、そんな粗忽者に対してしょうがない奴だと苦笑してしまうような、親しみの情が垣間見えるように思える。落語の滑稽噺のひとつとして「粗忽長屋」というふうに使われたりすることも、あるいは影響しているのかもしれない。「粗忽者」と呼ばれることはけっして名誉なことではないが、しかしそのことをひどい侮蔑だと感じる者も、そんなにいないのではないだろうか。

 さて、本書『粗忽拳銃』というタイトルにも、「粗忽」という言葉が用いられているが、まず思いつくのは、前述した落語の滑稽噺「粗忽長屋」とかけている、というものだ。じっさい、本書には流々亭天馬という前座の噺家が登場するし、この「粗忽長屋」という噺は物語のなかで非常に重要な位置を占めている。「粗忽長屋」とは、タイトルのとおりそそっかしい粗忽者ばかりが集まった長屋での出来事をあつかった噺で、行き倒れの死体を見かけた八五郎が、同じ長屋仲間の熊五郎に違いないと思い込み、当の本人に引き取らせに来させる、という笑い話なのだが、そんなそそっかしい人たちが、もし拳銃などという物騒きわまりない代物を手に入れてしまったとしたら、はたしてそこからどんな珍騒動が勃発してしまうのか――本書のタイトルには、そんな意味もこめられている。

 空き地の隅に捨てられた粗大ゴミにまぎれていた、一丁の拳銃。てっきりモデルガンだと思って引き金を引いてみたら、なんとこれが本物で、あやうく友人を射殺してしまうところだった――これが本書の冒頭シーンであるが、ここだけを見ても、仮にモデルガンだと勘違いしていたとはいえ、はずみで人に向けて撃ってしまう流々亭天馬の、粗忽きわまりない性格がよくわかることと思う。もっとも、彼はたんに粗忽なだけではなく、根拠のない自信をみなぎらせ、かつての江戸っ子のような勢いと頑固さで人を引っ張っていく、27歳の若き噺家である。そして彼の周囲には、それぞれの分野で何かを表現していく道を選んだ者たちがいる。時村和也は映画、三川広介は演劇、そして高杉可奈はライター ――誰もがまだ無名だったり見習いだったりで、日々の生活にも苦慮するような境遇であるが、そこには互いに表現を志す道を決意した者たちのみが共有できる、何ものにも変えがたいものが、たしかにあった。

 壁にぶら下がった、一丁の拳銃。その弾丸を発射した時のあの感覚は、今も手に残っている。目を閉じれば手のひらに幻の拳銃を感じることもできるほどだ。
 そしてそれは、きっと自分だけが持っている武器なのだ。

 流々亭天馬が起こした発砲騒ぎが事件として報道され、警察に届けるか捨てるかしたほうがいい、という三人に対し、天馬は銃の保持に固執する。師匠である流々亭天光に弟子入りしてから5年、そろそろ前座から二ツ目への昇進を考えなければならないのだが、彼は師の落語を慕うあまり、師のコピーの域から脱することができずにいた。思わぬなりゆきで拳銃を手に入れるにいたった天馬は、その力を自身の変化に向けて動き出すための力として考えていた……。

 大きな夢や目標、好きで好きでたまらないことを夢中になって追いかけている若者たちの、揺れ動く心の様子やその成長を描いている、という意味では、典型的なテーマをあつかっている本書であるが、そのもっとも注目すべきところは、やはり拳銃という、どう言いつくろっても凶器であり殺人の道具でしかないものの力を、若者たちだけがもつ、荒削りで無謀ではあるが、しかし無限の可能性を秘めている力と結びつけ、拳銃のもつマイナスイメージをプラスへと見事に転換させてしまった、その手腕にこそある。そういう意味では、偽札作りという犯罪行為を男たちのロマンへと転換した真保裕一の『奪取』を思わせる清々しさがある。そして、天馬が拳銃を撃ったことでたしかに感じ取った、表現者としての手ごたえは、しだいに彼の周囲にいる者たちへと伝播していく。

 天馬にかぎらず、本書に登場する若者たちは、表現者であるがゆえの似たような悩みを、それぞれかかえている。なかなか上達しない技術、機会をものにできないもどかしさ、自身の才能への不安――そんな悩みでなかば動けなくなっている彼らに、拳銃がもつ暴力的な力が、まるで後押しするかのように作用し、そして彼らを突き動かしていく。とくに、時村和也が撮ることになる半フィクションの映画が秀逸だ。今、自分たちが銃をもっているという現実、その銃を、どうやら暴力団が探しているらしいという、どう考えてもヤバい状況を、彼らはすべて「銃ゲーム」というタイトルの映画の撮影として取り込んでしまおうとする。ハプニングやトラブルさえも楽しもうとする彼らの姿は、そのまま自分たちの思いどおりにならない、理不尽で不条理な現実に対する叛乱のようにさえ見えてくるのだ。

 また、物語の流れに直接絡むわけではないが、天馬や可奈の師匠役となっている人たちの、弟子たちに対する距離のとり方も良い味出している。自分たちの持っているものをそのまま伝えていくのではなく、あくまで彼らのもっているものを引き出していくようなさりげない気配りがそこにあり、言ってみれば若くて荒々しい力との対極として位置づけされているのである。

「失敗しようが挫けようが、それで命まで取られやしねえよ。――だったら、やりたいことやって生きなきゃ損ってもんだぞ」

 はたして、「銃ゲーム」の撮影は最後までできるのか。それ以前に、拳銃はいったいどうなってしまうのか。そして、本物の拳銃をもったことで、天馬たちの表現がどのように変化していくのか――粗忽者ではあるが、だからこそ何かを表現したいという気持ちに純粋に生きていこうとする若者たちの、惚れ惚れするくらいまぶしい姿がそこにはある。(2004.10.28)

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