【角川書店】
『ナンシー関の記憶スケッチアカデミー』

ナンシー関編著 

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 書評をする前に、ひとつだけ警告しておきたい。本書『ナンシー関の記憶スケッチアカデミー』は、大勢の人がいる場所ではけっして読んではいけない。たとえば、通勤電車のなかで本書を読むのはやめておいたほうがいい。本屋で立ち読みなんてのはもってのほかだ。抱腹絶倒間違いなしの本書を読んだが最後、笑いを押さえてすましていることなど、絶対に不可能だからだ。以前、私がまだ学生だったころ、ついつい本屋で宝島社の『VOW』を立ち読みしてしまったのだが、偶然そのときの私を目撃した友人の話によると、「近寄りがたいものを感じた。知り合いだとは思われたくなかったので、声はかけなかった」ということだったらしい。なんてひどい友人だと思いはしたが、本書についてもまったく同じことが起こらないとはかぎらないのである。人々に奇異な目で見られるという危険を犯したくなければ、本書はひとりでいるときに読んでほしい。そして心ゆくまで大笑いしてもらいたい。

 さて、本書のいったい何が抱腹絶倒なのかといえば、それはひとえに人間の記憶がいかにあいまいでいい加減なものであるか、という一点につきる。本書のもととなっているのは、著者が「通販生活」という冊子のなかで行なっていた連載企画で、自分の記憶だけを頼りに何かをスケッチする、というもの。毎回ひとつのお題を決め、読者にそのスケッチを投稿してもらうという企画ものだったのだが、本書はそれらの投稿作品のなかから、とくにキワモノとも言うべきものばかりを厳選した構成になっている。

 出されたお題は、たとえば「カエル」や「牛」「自転車」といった身近なものから、「鉄腕アトム」や「ペコちゃん」「スフィンクス」といった誰もが知っている有名なキャラクターまでさまざまである。もちろん、私だってよく知っているものばかりであるのだが、よく知っているということと、じっさいにそれを正確に描いてみせるということとはまったくの別問題であることを、本書はこれ以上はないという形で提示してみせているのだ。

 とにかく、似ていない。似ているものもあるが、どこかが違う。何かパチモンっぽい雰囲気が漂っている。「カエル」というお題のはずなのに、描いてみたらひよこみたいな体型になっていたり、「カマキリ」のはずが未知の生命体のようだったり。妙にふてぶてしい「ペコちゃん」や、まるで犯罪者みたいな「サンタクロース」、まったく動きそうにない「自転車」など、おそらく書いた本人さえも「こんなはずでは」と頭を抱えている姿が目に浮かぶような作品ばかりで、とにかく爆笑せずにはいられない。著者自身による、いっけん真面目な学者を装った分析的な、しかしどこか斜め上を行くようなズレかたをしているコメントがまた秀逸で、このコメントがなければここまで爆笑することはなかっただろうことは間違いないものの、やはり何が面白いって、描かれた作品のある種の必死さ加減――なんとか本物っぽく見せようと悪戦苦闘しているのにもかかわらず、その努力がまったくといっていいほど報われていないのがよく伝わってくるからこそのおかしさが、たしかにそこにはあるのだ。

 人を笑わせるというのは、簡単なようでいてじつはすごく難しいことである。とくに、笑わせようと意図したうえで人を笑わせる技術は、下手をするとその意図ゆえにかえって笑えなかったりするものであるが、本書に掲載されている数々のスケッチには、そうした意図とは無縁のところで成立している部分がある。描いている当人はいたって真面目であり、だからこそその激しいギャップが読み手の笑いを誘うのである。それは言ってみれば、テレビ番組でよくある、偶然撮影することに成功したハプニングばかりを集めた投稿ビデオコーナーを見ているときの笑いと通じるものがある。ようするに、不意打ちの笑いである。私たちの誰もがよく知っているはずのお題――しかしおのれの記憶を頼りに描き出してみたものは、自分の記憶しているお題とはあまりにかけ離れてしまっている。本人さえ意図していないその不意打ちは、だからこそときに、とんでもない威力を隠しもっているものでもあるのだ。

 本書の後半は、そんな数々の投稿作品に触れてきた著者だからこそできるちょっとした傾向の分析と、そこから導き出されるいくつかの考察、さらにはいとうせいこう、押切伸一との座談会が掲載されていて、なぜ脳で記憶しているものが、紙に描かれるとこうまで食い違ってしまうのか、なんてことをけっこう真面目に語っていたりする。もちろん、そこには科学的根拠などまるでない、あくまで個々の推論にすぎないものでしかないのだが、人間の脳が記憶しているのが、あくまでその特徴的な部分だけであり、全体を正確に記憶しているわけではないし、また脳から末端に情報が伝えられるまでにはある程度の齟齬が生じている、という指摘には、いろいろと考えさせられるものがあった。それは言ってみれば、私たちの脳みそや感覚というのは、思っているほど優秀なものではなく、けっこういい加減であてにならないなところがある、ということであり、考えようによっては何が真実なのかがわからない、他人と共有できるものが何もない、という怖さにつながりかねないものでさえあるのだが、投稿作品とそのコメントにさんざん笑わされた読者がそこで思うのは、ある種の気楽さ――どんなに偉い人でも、どんなに小難しいことを考えている天才であってもしょせんは人間であって、鶏を記憶だけで描けば足を四本書いたりする程度のものでしかないのだ、という安心感である。

 脳味噌は数パーセントしか使っていないとか、言うじゃない。だから頑張れとか。でも頑張っちゃいけないように、もともとなっているんだね。気楽にいこうぜってことじゃないの。そうじゃなかったら使うはずだもんな。

 人間の記憶のあいまいさは、人間だからこそもち得た融通さ、臨機応変さへと通じるものでもある。そしてそんな記憶のあいまいさが、ときに本書のようなおかしさを誘うものを生み出していくことを考えれば、それは人間の想像力へとつながる大きな力だと言うことさえもできる。私たちはけっして完璧ではないし、ときに間違えたり大きな過ちを犯したりすることもある不完全な存在でしかないのだが、それは自分だけでなく、およそこの世に生きるすべての人間がそろってそんなふうであり、だからこそ無理をしたりする必要はないのだ、という深遠なメッセージが、本書には隠されている。(2006.02.03)

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