【新潮社】
『忍びの国』

和田竜著 

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 何か物事を行なうさいに、全力をもってことにあたることを、自分の「命を懸ける」覚悟という意味で「一所懸命」という。今ではむしろ「一生懸命」という表記のほうが一般的になっているのかもしれないが、この「一所懸命」という言葉、もともと武士が主君から与えられた領土を守るというのが語源であり、「一所」とは一つ所、つまり自分の土地にとどまるという意味をもっている。そしてこの言葉は、武士という職業が領土を媒介とした一種の契約関係で成り立っていること、つまりギブアンドテイクで成り立つ傭兵というべき性質をもつものだったことを示すものでもある。領土を与えられた武士は、国が攻められれば、自分の領土を守るために主君のもとに集まってこれを迎え撃つ。だが、もし敵が領土を保障してくれるのであれば、損得勘定によって主君を裏切ることも日常的であり、私たちが「武士道」という言葉から連想する武士のイメージからすれば、ずいぶんとドライな印象を受けるのだが、戦場においてまさに命懸けで戦うためには、そうした割り切りが必要だった、ということなのかもしれない。

 今回紹介する本書『忍びの国』というタイトルが指し示しているのは伊賀の国のことであり、伊賀といえば忍者、という連想が出てくるほど有名な場所であるが、本書は当時天下統一への地盤を着々と固めつつあった織田信長の軍勢による伊賀攻め「天正伊賀の乱」を描いた作品だと言うことができる。だが、この作品の特異なところは、結果として伊賀の国を滅ぼす発端となるこの戦を伊賀の側からとらえたというだけでなく、伊賀をおさめる十二家評定衆たちが意図的に引き起こそうと画策したものとして物語を構築している点に尽きる。そして、そのために本書のなかで描かれる忍者にあたえられたのが、「人でなし」としての忍者像を強調するというものだ。

 ――目的のためなら他人を出し抜き、人を殺すことなど屁とも思うな。
 こんな生業を脈々と受け継いだ伊賀者たちは、他人の命を奪うことに感傷を抱かぬ代わりに、自らの命が狙われることもさほど深刻に受け止めなかった。

 享楽的で自己の欲望に正直、人の弱みにつけこんで騙し、裏切り、その場その場の欲のために人の命を簡単に奪ってしまう伊賀忍者たちには、およそ人情や倫理、仲間意識といった人間らしい心の動きなど存在しない。そういう意味で、彼らは「一所懸命」の由来である武士たち以上にドライで現金な性質をもつ存在であるのだが、重要なのは、人の生き死に、命のやりとりを日常とする人たちが必然的に身にまとうストイックさ、ある種の重々しさすら感じさせないほど、その「人でなし」ぶりが徹底されているという点である。それはそうだろう。存在しないものは理解のしようがないし、そもそも理解しようという心の動きすら皆無なのだから。

 人の命に価値を置かない、ということの根底には、自分の命すら価値を置かないという考えがある。というよりも、自分という存在、守るべき自己すらない、あるいはそうしたものがあったとしても、それが大切なものだと意識させない、という生き方しか許されなかったがゆえの忍びの本質が、本書のなかには貫かれている。それゆえに、彼らの言動は殺人という行為さえあまりにも軽々しく、そのあまりの軽さゆえにかえって滑稽な雰囲気さえ生み出していくという現象を引き起こす。ちょうど、動物園のサル山にエサを投げ込み、そのエサに大勢のサルたちが群がっていく狂乱を見るようなおかしさが、そこにはたしかにあるのだ。そう考えると、当時の武士たちが忍者の存在やその考えについて毛嫌いしていたというのも、妙に納得がいく。

 上述の引用における「目的」が、何かもっと高尚なもの、それなりの重みがあればまだいい。だが、伊賀者たちの「目的」というのは、きわめて即物的で現実的なものだ。そのさいたるものこそ、金銭ということになる。金のためなら同じ伊賀者であっても裏切り、殺すこともためらわない虎狼の輩――けっきょくのところ、「天正伊賀の乱」もまた伊賀者たちの策略であったのだが、その理由は「織田軍を打ち破れば、全国に伊賀忍者の有能さをアピールできる」、つまり宣伝効果による依頼の増大を期待してのことだったという、別の意味ですさまじさを感じさせる。しかも、そのために人の心を見通し、その隙をつき、結果として相手に自分の思いどおりの行動をとらせていくことで、少しずつその策略を完成させていくという念の入れようである。

 天下無双の武者であり、忠義や正々堂々といった気風を何より重んじる日置大膳、常に父である信長の威光と比較され、自分の無能さを自責せずにはいられない織田信雄、かつて伊賀の十二家評定衆でありながら、そのあまりの「人でなし」ぶりに絶望し、逆に伊賀を滅ぼそうという意思に燃える柘榴三郎左衛門や、仲間うちのくだらない争いで弟を殺され、しかもそのことに何の感慨ももたない身内たちに愛想をつかした平兵衛、伊賀随一の忍術、体術を極めながら、忍びとしての仕事を長くさぼりつづけ、しかもさらってきた武家の娘であるお国にまったく頭の上がらない無門など、本書には敵味方合わせて何人もの登場人物が出てくるが、伊賀忍者の「人でなし」という点をことのほか強調する本書において、それぞれがもつ個々の感情さえも、伊賀十二家評定衆の手の内で操られているかのような思いにとらわれてしまう。しかも、その真意が真意ゆえに、人の生き死にの虚しさ、戦い殺しあうことの愚かさを通り越して、どこか笑うしかないような気分にさえなってくる。

 下人たちは、平伏しながらどよめいた。
 ――国を売るのか。
 そんなしおらしいどよめきではない。
 ――織田家はちゃんと銭を寄越すのか。
 こんな目先のことを案じたどよめきである。

 織田軍勢を伊賀に攻めさせるという遠大かつ浅慮な謀略の過程で、伊賀は織田家に下るという決定がなされたときの、下人忍者たちの態度からしてこのザマである。同じ国に住みながら、このうえなく個人主義でバラバラな伊賀者たちに、国を守るなどという殊勝さなどあるはずもなく、いざ織田軍が攻めてきたときには、その半数が遁走を計画するという、なんとも本末転倒な事態を巻き起こしたりする。こんな様子ではたして「天正伊賀の乱」がどのように描かれ、どんな結末を迎えることになるのか、読者としては気にならないほうがどうかしているというものである。そしてそれこそが、著者の思う壺であり、私たち読者は気がつけば、その術中にすっかりはまりこんでしまっているのだ。

 もし忍者というものに対して、従来のイメージを崩されたくない、という人であれば、あるいは本書は読まないほうが賢明かもしれない。だが、武士にしろ忍者にしろ、私たちが抱いているイメージというものは、きわめて一方的で、かつ都合のいいものであることが多い、というのもひとつの事実である。凄まじい忍術と人並みはずれた身体能力をもちながら、その使い道をこのうえなく誤っている伊賀忍者たち――彼らがその力を振るう「目的」が、どのような変化をとげることになるのか、あるいは変化しないままであるのか、といった点は、あるいは私たちもまた顧みなければならないものがあると言える。それをたしかめる、という意味だけでも、本書はたしかに読む価値がある。(2008.12.08)

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