【河出書房新社】
『蹴りたい背中』

綿矢りさ著 
第130回芥川賞受賞作 



 自分が他人の目にどんなふうに映っているのか、というのは、意識しなければどうということのないものであるが、いったん意識してしまうと、ことあるごとに気になってしまうという、なんともやっかいな性質をもっている。たとえば、私が本屋で宝島社の『VOW』シリーズを立ち読みしている姿をたまたま見かけた友人が、その様子を「近寄りがたいものがあった」と報告してきたことがあるのだが、それ以来、本屋で立ち寄りするたびに、自分の顔がにやけていないかどうかという点が、やはり心のどこかでひっかかるようになってしまっている。

 ファミリーレストランなどでひとりで食事をしている人に対して、いっしょに食べる人がいなくて寂しそうだと評するのは、その人にとっては大きなお世話ではあるが、たとえ自分自身がそうは思っていなくとも、あるいは別の、他人には図りがたい深遠な理由があろうと、他の人たちから「寂しそうな人間」だと見なされていると当人が知ってしまえば、それが自分の主観ではない、世間一般のとらえられかただという認識がその人には生まれてくる。そしてそういうくくり方をされてしまうのは、まるで自分というたしかな個性を無視されているような気がして、どうにも落ち着かないし、また気に食わない。たとえ、自分がこの世界のなかで取るに足らない人間だと自覚していたとしても、である。

 高校に入ってからというもの、何度笑いをこらえたことか。笑うってことは、ゆるむっていうことで、そして一人きりでゆるむのには並々ならない勇気がいるものだ。もし周りにびっくりした目で見られたりしたら、たまらない。

 本書『蹴りたい背中』は、物語という観点でいえば、じつにどうということのない話である。どこにでもいそうなある女子高生の、とくに大きなイベントが起こるわけでもない、ごくありふれた日常生活――だが、本書のなかで主体をなす三人の登場人物が織り成す人間関係、とくに、それぞれの人物とのあいだに置かれる微妙な距離感と、その変化という意味で、その三人の存在は、まさに今というリアルを象徴する立ち位置にいると言うことができる。

 まず最初は、本書の語り手でもある長谷川初実。彼女は立派な女子高生であるが、入学して三ヶ月近く経っているにもかかわらず、いまだにクラスの同級生たちとなじめないでいる。中学校からの同期である絹代は、新しいクラスメイトのグループと打ち解けており、ともするとひとりで放っておかれることが多くなっている。それならそれで、自分なりの新しい交友関係を築くなり、絹代たちのグループに混ぜてもらうなりしてもらえばよさそうなのだが、そのあたりについては彼女独自のプライド――というよりも、いかにも「友だちになって」という態度が格好悪いと思いこんでいるところがあって、自ら進んで関係を築こうとはしない。結果、本書冒頭のように、理科の実験でグループづくりをするときに、余り者にされるような立場に甘んじなければならなくなっている。

 自分がどうしたいのか、ではなく、自分がどのように見られているか、扱われているか、という点にやけに敏感な長谷川の態度は、いかにも背伸びしたい、しかし確たる自分をまだまだ模索中な十代にありがちな心情であり、きっと似たような思いを経験した読者も多いことかと思うが、このはたから見るとなんとも痛々しい語り手の感覚が、本書の持ち味である。とはいうものの、敏感すぎてヒリヒリするような痛みをともなうものではなく、またそれゆえに極端な行動に暴走していくわけでもなく、むしろそんな痛い自分を客観的に眺めては、自虐的に笑い飛ばすようなユーモアが中心となっている。そして、そんな長谷川の存在を際立たせるキャラクターとして登場するのが、「にな川」という同じクラスの男子だ。

 にな川は、理科の実験におけるグループ分けで、長谷川と同じく余り者となった生徒だが、その立ち位置はむしろ、彼女とは対極を成す。つまり、長谷川が自分の外に広がる現実世界を常に気にしているのに対し、にな川は学校における自分の評価というものをまったく意識していない。彼の価値観は、ひたすら「オリチャン」こと佐々木オリビアという名のアイドルに向けられており、そういう意味で彼は常に自分の内側の世界、オリチャン命のアイドルオタクとしての世界で生きている。じっさい、長谷川がにな川と接点をもつことになったのは、彼女が中学生の頃に現実の佐々木オリビアと会ったことがある、という出来事を通じてであり、彼の目には長谷川は、自分のコレクションを補完してくれる存在以上の何者でもなく、それゆえに二人はしばしばにな川の部屋に寄ったりするのだが、彼が長谷川を生きたひとりの人間として見ているかどうか、はなはだ疑問なところがあったりする。そして、そんなふたりの接点となった佐々木オリビアが、本書におけるキーとなる三人目である。

 それまでにな川と同じように、世間というものに無頓着だった長谷川は、佐々木オリビアとの唐突な出会い――相手の懐に何気なく入り込んできて、しかもそのことで相手をけっして不快にさせないだけの魅力と自信に満ちた、圧倒的な「個」の存在とぶつかって、自分が他人からどんなふうに見られているのかを強烈に意識するようになった。一方でにな川にとっての佐々木オリビアは、あくまで情報の断片でしかなく、生の人間としての認識に乏しいところがある。この時点で、ふたりにとって唯一共通の接点である佐々木オリビアに対する認識のズレが生じており、それゆえにふたりの距離は平行線をたどるばかりであるのは自明のことなのだが、生の佐々木オリビアを知り、またそのことで自分という存在のちっぽけさ、とるに足らない存在である自分を意識させられた長谷川としては、いまもなお自身の理想像としての佐々木オリビアを思い描いているにな川の、その無頓着なところに苛立たしさを感じずにはいられない。

 本書のタイトルである『蹴りたい背中』とは、異性である自分がそばにいるにもかかわらず、どうしようもなく遠いところにいるにな川の背中のことであり、蹴るという強烈なアプローチで無理やりその距離を縮めるという方法をとるしかなかった、長谷川の苛立ちを表現したものである。そうした人との接し方について距離感がうまくつかめず、不器用で極端な方向に走りがちな登場人物たちの、若さゆえの痛々しいリアルさがそこにはある。だが、本書はそんな若者たちをけっして非難しているわけではない。むしろ、そんな関係もあっていいじゃん、という姿勢である。自分と他人との距離に焦燥をいだき、少し距離を縮めようと近づけば、思った以上に相手のそばまで踏み込んでしまってかえって気まずい思いをしたり――それは、大人になるさいに誰もが通ってきた道であるのは間違いないが、そうした距離のとり方のリアルさという点で、本書は巧みなのだ。

 学校教育においても個性を重要視するようなアプローチがもたらされ、また誰もが同じ情報を共有するのではなく、まさに十人十色の特化した情報を深めていくような時代のなかで、リアルな人と人との距離というのは、あるいは以前ほどつかむのが容易ではなくなっているのかもしれない。長谷川とにな川――現代を生きる人々の象徴でもあるふたりの関係に、ぜひとも注目してもらいたい。(2008.04.15)

ホームへ