【角川春樹事務所】
『三国志』

北方謙三著 



 人はさまざまな偏見に陥りやすい生き物であるが、なかでもあまりにあたり前すぎて、本人が偏見だと気がつかないたぐいの偏見が、じつはもっともタチの悪いものだと言うことができる。そういう意味で、私たちにとってもっともやっかいなのが、自分たちが「人間」であるという偏見だ。自分がひとりの人間であるという、あまりにも自明の事実は、それゆえに私たちの思考をひとりの人間の枠のなかにはめ込んでしまう。そして言うまでもなく、私たちひとりひとりの把握できる範囲はごく限られてしまっている。単純に「幸せになりたい」という願いについても、その範囲は自分自身か、広がっても自分の家族や親しい友人、恋人といった関係者にかぎられてしまう。ましてや自分が死んだ後、それこそ百年、二百年先のことまで視野に入れてものを考え、行動の指針とすることができる人間が、今の世のなかにどのくらいいると言えるだろうか。

 中国の有名な歴史小説である『三国志』は、それこそ子どもの頃はまともに読書などしたことのない私でも、横山光輝の漫画という形でそのストーリーを知っている作品である。それゆえに、今回紹介する北方謙三版『三国志』が、何を主要なテーマとし、何を描こうとしているのかが気になるところであったが、読み終えてまず思ったのは、本書が「志」の物語であるという点である。

「腐っているのは、王家ではない。そのまわりだ。地方の役人にまでそれが及んでいる。だから私は、天下の平定と言った」

(一の巻 天狼の星)

『三国志』のストーリーについて、あらためてその詳細を語るのは避けるが、中国が後漢から魏・呉・蜀の三国に分裂し、それぞれが覇権をめぐって争うことになる本書において、その中心となった登場人物たちがどのような「志」のもとに、天下を目指すことになったのかという点に注目することで、本書の全体像が見えてくるようになる。上述の引用にもあるように、四百年続いた漢王朝は、宦官と外戚が力をもつことで政治が乱れ、族が跋扈する戦乱の世である。後に蜀を建国することになる劉備は、筵を織って生計を立てている青年にすぎなかったが、今の乱れた世を平定したいという大きな志を抱きつづけていた。賊に奪われた馬を取り戻すという依頼を機に、関羽と張飛という豪傑と義兄弟となった彼は、曹操をはじめとする群雄たちに混じって天下への道を目指すことになるのだが、重要なのは、劉備が「志」として語る「天下の平定」とは、自分が天下の覇者として君臨することを目指しているわけではない、という点である。

 国には秩序の中心となる存在が必要なのだ。それが、帝だ。――(中略)――帝の下で争いが起きようと、秩序の中心として、帝は超然と存在している。つまり、民の心の拠りどころ。帝がいるかぎり、亡国の道を歩くことも決してない。

(二の巻 参旗の星)

 帝を廃するのではなく、その周囲にある腐ったものを取り除き、あくまで漢という国を再興する。それが劉備の目指す「志」であり、それは本書のなかでけっして揺らぐことなく彼の、そして彼に集う者たちのなかにありつづけるものである。これは、群雄が割拠し力ある者が覇者として、今の帝に成り代わろうと目論んでいる諸侯たちとは、間違いなく一線を画する考え方であり、本書ではその点をとくに際立たせようとしているところがある。そしてそう考えたとき、劉備にとって漢王朝の帝をないがしろにする者たちは、たとえそれがどれほど正当性のあるものであったとしても、彼の敵となるのである。そのもっともわかりやすい人物が、帝の威光を利用して権勢をほしいままにした董卓であり、また帝を保護するという名目のもと、その力を自らの覇道のために利用することをためらわない曹操である。

 後に魏を建国し、最初に自らを帝と宣言することになる曹操は、軍略はもちろんのこと、民政や芸術についても非凡な才能をもつ人物として書かれている。また彼はけっして官位や地位といった俗物的なものに溺れることなく、また誰かと協調することもなく、ひたすら血塗られた覇道を突き進む「ただひとりの者」としても描かれている。彼にとっての人間関係とは、自分に従うか、敵となるかの二者択一なのだ。だが、一度臣下になれば、その才知をきちんと見定め、活躍の場を与えようとする。今の帝があまりに無能であるからこそ、世の中が乱れる。天下を平定したいなら、より力のある者が帝に成り代わればいい、というのが曹操の思想の根本にある。だが、それは劉備のそれとは決定的に対立するものだ。

 曹操と劉備、ともに乱世を終息させるという方向性は同じであるし、また似たような孤高の志の持ち主でもあるのだが、その違いをどこまではっきりと意識することができるのかが、本書を読む大きな鍵となってくる。

「天下を取るというような、小さな志ではなく、この国の百年先、二百年先を見据えた志ということになりますか」
「天下を取るという志が、小さい?」
「私は、そう思っています」

(七の巻 諸王の星)

 上述の引用は、赤壁の戦いにおける諸葛亮と、呉の重鎮である魯粛との会話であるが、劉備の軍師として仕官した諸葛亮のこの言葉は、劉備とそれ以外の諸侯の「志」の違いを大きく隔てるもっとも象徴的なものだ。つまり「天下を取る」というのは、あくまでひとりの人間の野望の範囲内でしかない、ということである。あの曹操ですら、ひとりの人間という偏見の枠からは逃れられていないし、それゆえの孤独にさいなまれてもいる。そうした「枠」をいともたやすく超えたところに「志」を打ち立て、それに邁進していくという、底知れぬ大きさを感じさせる人物、それが劉備という男の魅力なのだと本書は宣言しているのだ。そしてその魅力は、傑出した才がないにもかかわらず、その周囲に優秀な人材が集まってくる劉備と、たぐいまれな才能に恵まれながらも、それと同程度、あるいはそれを超える才をもつ者に恵まれなかった曹操という、ふたりの差異をさらに引き立てることになる。

 そしてこの「志」は、それをもつ当人だけでなく、その周囲にいる人たちにも少なからぬ影響をおよぼしている。たとえば北方版『三国志』の大きな特長のひとつとして、張飛の人柄がある。張飛と言えば勇猛な軍人ではあるものの、酒好きの乱暴者というイメージがあるのだが、本書の張飛の場合、劉備の「志」のためにあえて乱暴者として振るまい、劉備に対する悪いイメージをすべて自分に向けさせるという設定になっている。本来は繊細な心をもつ彼が、あえてそうした損な役回りを引き受けた最大の理由が、劉備の「志」にあったことは言うまでもない。それは、ひとりの人間の枠を大きく超える、それこそ自身の全存在をかけるにふさわしい「志」だからこそ有効になってくる設定である。

 そして、そんな彼と対比されるのが、最強の軍人だった呂布だ。裏切りを繰り返した悪人というイメージの強い呂布だが、本書の場合、その事実が彼の人格ではなく、「志」の有無によるものだとしている。たぐいまれな騎馬戦の才がありながら、それを活かせるだけの「志」をもてなかった、あるいは劉備のような人物と出会えなかった不幸が、彼を印象深い人物としているし、事実彼の死後も、その勇猛さはさまざまな人物によって語り継がれていくことになる。

 ある程度有名な話であるがゆえに、わかりきったエピソードをことさら大袈裟に表現せず、あくまで叙事的に書き綴っていくことで、メリハリのあるストーリーに仕上がった本書はまた、時間の経過についても強く意識させられる作品でもある。当初は若かった登場人物たちも、巻が進むにつれて否応なく老いを背負い込むことになる。そのとき、その「志」はどのような変化を遂げることになるのか、そしてその志が人をどのように変化させるのかが、じつのところ本書最大の読みどころではないかと個人的には思っている。そして、そんなふうに考えると、たとえばたびたび差し挟まれる、漢中の五斗米道軍を指揮する張衛のエピソード、あるいは曹操の医師として仕えた爰京のエピソードなどの意味もまた見えてくる。

 人は生きる時代を選べない。それゆえに、生まれ落ちた時代、生まれ落ちた場所でどのように生きるのかが重要になってくる。壮大な「志」に生きた者が見た夢――それは手に届かないがゆえに夢で終わってしまうのか、あるいはその生き様が他の人たちを突き動かす原動力となりえるのか。まさに見果てぬ夢の実現のために生き、あるいは翻弄され、あるいは死に、あるいは背を向けた男たちの物語を、ぜひ堪能してもらいたい。(2014.06.17)

ホームへ