【講談社】
『公爵夫人邸の午後のパーティー』

阿部和重著 



 かつて、この私こと八方美人男をして「油断のならない」と言わしめた作家は、じつはたった二人しかいない。ひとりは『ゴーストバスターズ』を書いた高橋源一郎、そしてもうひとりこそが『インディヴィジュアル・プロジェクション』の著者、そして今回紹介する本書『公爵夫人邸の午後のパーティー』の著者でもある阿部和重である。このふたりの作家が書く小説について共通して言えるのは、普段私たちが行なっている読書――そこに物語が書かれた意味、その文や単語が持っているはずの意味を追い、理解しようと努める読書を拒否してしまう、ということだ。だが、高橋源一郎が既存の物語の構造、つまり物語に付加されるテーマや登場人物の役割といったものを徹底して破壊しようとしているのに対し、阿部和重が行なおうとしているのは、破壊ではなく危機感の認識だと言うことができる。では、その危機感とは何か? それは、現代の日本文学――何年も前に死んだと言われて久しい文学に対する危機感であると同時に、読者が安易に物語の内容についてうのみにしてしまうことに対する危機感でもある。どうも、著者にとって、現代を生きる私たちは、あまりに隙だらけであり、危なっかしくて仕方のない存在であるようだ。

 実際、本書のタイトルにもなっている「公爵夫人邸の午後のパーティー」では、まだ二十三歳になったばかりの楠木夫人が、乱交パーティーを期待してある屋敷にやってくるのだが、その一方で、ゴトウという男に連れられてある屋敷にやってきたジュンコが、なぜか同じ屋敷内ではちあわせしてしまった銀行強盗グループと銃の密売グループによる激しい銃撃戦に巻き込まれてしまう、という奇想天外なストーリーが展開する。いわば、ふたつのの物語が交錯するようにして話が進んでいくのだが、じつを言うと、このふたつのストーリーが実際にひとつに結びつくのはラストだけであり、それ以外のところでは、それぞれがまったく無関係なところで、勝手に物語を進めていってしまうのである。

 だが、はたしてそれは本当なのだろうか、と読者はあるいは疑問に思うかもしれない。「公爵夫人邸の午後のパーティー」において描かれるふたつの物語は、本当に無関係なのだろうか、と。たとえば、楠木夫人が出席したパーティー会場である屋敷と、ジュンコが連れてこられた屋敷は、じつは同じ場所にあったのではないか、まったく別の屋敷と考えるには、停電のタイミングがあまりにも一致しすぎていないか、パーティー会場で、夫人以外のみんなが西部劇のガンマンやギャングの仮装をしている一方で、ジュンコの物語では本物の猟師(ガンマン)と銀行強盗(ギャング)が殺し合いをしている、というのは、何か深い意味があるのではないか、そして、そもそも無関係であるはずのふたつの物語が、なぜ平行して書かれているのか――物語全体はあくまで説明的、主観の入り込む余地などまったくなさそうな、ドライな文体に徹しているにもかかわらず、肝心なところの説明は何ひとつされていない。そこにあるのは、まるでニュースを報じているかのような、事実の羅列だけなのである。

 だが、ただひとつだけ明らかなのは、楠木夫人の物語が、セーラー服のコスプレ(正確には、セーラー服を改造して作った「セーラームーン」のコスプレ)に象徴されるように、すべてが嘘っぱちのもので塗りかためられている一方、ジュンコの物語が、本物のセーラー服、そして現役の女子高生であることに象徴されるように、すべてが本物であり、本当の銃撃戦で何人もの人が死んでしまう、ということであり、そしてあまりにもギャップの激しいふたつの物語が、そのラストで何もかもがうやむやにされてしまう、ということである。何が本物で、何が偽物なのか――私たちはまさに、「ただのカラオケ・ボックスの宣伝チラシでしか」ない、偽物の一万円札の印刷されたチラシを見るかのように、本物の一万円札を「みつめながら痰を吐き、放屁する」老浮浪者のごとく、その場を立ち去るよりほかどうしようもないのだ。

「公爵夫人邸の午後のパーティー」が、本物と偽物というふたつの世界を用意し、その境目を限りなく曖昧にすることで私たちの危機感を認識させるものだとすると、もうひとつの作品「ヴェロニカ・ハートの幻影」は、語り手を語り手たらしめる要素を限りなく曖昧にすることで、私たちの危機感を認識させるものであり、そう言う意味で、オヌマの人格が次々と分裂していくような印象を与えた『インディヴィジュアル・プロジェクション』の流れを強く受けている作品であると言えるだろう。

 この話に登場するのは「全身キズだらけの男」であるが、彼は冒頭から風邪をひいて寝込んでいる。女ともだちの話によると、彼の住んでいるアパートでは、かつて限りなく自殺に近い事故死をした男がいて、その男にとりつかれているがゆえに体が弱ってしまったのだ、ということになっている。それでこのあと何が起こるのかと言うと、じつは何とも答えることができなくなってしまうのだ。というのも、「全身キズだらけの男」が自分の傷についての長いエピソードを語っていくうちに、いつのまにか人称が三人称から、彼にとりついている幽霊の一人称に変わり、今度は「全身キズだらけの男」なのか幽霊なのかよくわからない男と会話をしている、幼馴染らしい「私」に人称が移ったかと思うと、最後にはそれさえ定かではなくなってしまい、正体不明になってしまった「私」が芝居を見ていた、という、オチなのか何なのかよくわからないまま唐突に話が終了してしまうからだ。

 語り手が不定であること――そもそも語り手であるはずの「全身キズだらけの男」の名前すら定かではないというこの作品は、そのラストに象徴されるように、とらえようにもとらえられない、そもそもとらえる意味があるのかすらわからない作品として仕上がっている。それは同時に、定かでない語り手による物語が、どこまで真実でどこまでが嘘なのか、問うこと自体が無意味であるとも言えるだろう。このようなことを、例えば現代の、確固とした自分自身であること――自分のアイデンティティを確立することに、たいした意味を見出そうとしない若者たちの心を象徴するものだ、と捉えることは簡単だ。だが、そうした意味づけを本書に対してすることが、どこまで重要なのか、私ははなはだ疑問に思わざるを得ない。本書はまさに、そのような安易に何か意味を見出そうとする私たち読者の危機感をうながそうとしているのではないだろうか。

 けっきょくのところ、本書を読んでわかったのは、やはり阿部和重という作家は「油断のできない」小説を書く人である、ということであろうか。皆さんは本書に、どのような感想を持たれるだろうか。(2000.09.02)

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