【河出書房新社】
『カツラ美容室別室』

山崎ナオコーラ著 



 私が大学生だった頃に、文芸関係の講義を受けもっていたある作家が、どのような話の流れなのかは忘れてしまったが、自身の息子さんのことをネタに、人間関係について話していたことを覚えている。その息子さんは当時高校生で、ある日、家に同級生の女の子を連れ込んだらしいのだが、とくに何もないまま(ふつうに話とかをしていたらしい)彼女を帰してしまったという。妙齢の男女が家に上がり込んだら、やることはひとつだろうと思っていたその作家さんは、そんな息子の行為にちょっと信じられないような思いを抱いたみたいだが、若い男女の関係が、まるで判を押したように「恋愛」というくくりで結びついてしまうこと自体が、むしろふつうじゃないように当時の私は思ったものだった。

 人と人との関係において、かならずしもこうでなければならない、というようなものは本来存在しない。もちろん、ある程度の類型はあるだろうが、それは人間社会がなかば押しつけがましく提示する、その社会にとって都合のいい枠でしかなく、あらゆる人間関係がそうした単純な枠のなかに収められるという考え自体が間違いなのだ。若い男女の人間関係が、いつも恋愛という枠を意識しなければ成立しないものだとすれば、人間関係というのはなんと不自由で、窮屈なものかと思わずにはいられない。それでなくとも、この世に生きる人間のうち、半数は異性だというのに。

 こんな感じは、恋の始まりに似ている。しかし、似ているだけで、きっと、実際は違う。――(中略)――ただ単に、自然な感じで女と仲良くなりかけているという状況に、心が和んでいるのだろう。

 本書『カツラ美容室別室』は、高円寺にある美容院にまつわる物語だと言っていい。その名は「桂美容室別室」。店長の桂孝蔵は四十七歳で、店名に「別室」とあるのは、故郷の小倉で母親が本店を営んでいるからであるが、何より特徴的なのは、店長があまりにもはっきりとカツラだとわかるカツラをかぶっている点。一人称の語り手である佐藤淳之介が高円寺にあるアパートに引っ越してきたさい、友人の梅田さんに呼び出されてその美容院に髪を切りに行ったことが縁となり、美容室の面々と――とくに、美容師のひとりである樺山エリコと親しい間柄になる、という形で話が展開していくのだが、注目すべきなのは、語り手とその他の登場人物とのあいだに置かれた、その微妙な距離感である。

 たとえば、淳之介とエリコとの関係。ふたりはその後、何度かふたりだけで出かけたり、メールの交換をしたりするような間柄になっていくのだが、彼らの関係が「恋人」と呼ばれるようなものに発展していくことはない。いかにもそんなふうに展開しそうな関係であるし、そうでなくともエリコのほうは、恋人として付き合っていたはずの男性を同じ美容院の同僚である桃井ゆかりにとられてしまったばかりである。ふたりの関係が恋愛感情へとシフトしていっても何ら不自然なところはないはずなのだが、著者はそうした展開を、なかば意図的に回避しようとしているところがある。

 本書に登場する人物たちの関係は、けっして既存の言葉で集約できない、微妙な立ち位置にあるものが多い。そのひとつの指針としてあるのが、桂孝蔵のカツラだ。本書の冒頭に「カツラのことはなかなか本人には質問できないのが世の常」だとあるように、カツラの人にカツラのことを聞くためには、多少なりともその距離を縮めておかなければならない。たんにいきつけの美容院の店長、という間柄だけでは、なかなかそのあたりまで踏み込めないところがあるのだが、淳之介の場合は、梅田さんを仲介役にして彼らのお花見に参加し、かつエリコとゆかりの恋人の問題に巻き込まれるという体験の共有もあって、わりと親しい間柄として結びつくことになる。そして淳之介の人間関係において、どうやら桂孝蔵との関係と、樺山エリコとの関係は、基本的にほとんど差がないものとして書かれている。じっさい、メール交換については、淳之介はエリコとだけでなく、桂孝蔵ともやりとりしているのだ。

 あるとすれば、男女の性差だけ――だが、この「性差」こそがやっかいなものであるし、またいろいろなトラブルのもととなるのも事実である。そしてその根底には、若い男女の親しい関係といえば「恋愛」だと思い込んでしまう、ある種の社会的風潮がある。淳之介にしてもそれは例外ではなく、上述の引用のようにエリコとの関係を恋愛感情と結びつけようとしてみたり、彼女が知らない男と一緒にいるところを見かけて胸がざわついたり、あるいは逆にエリコの一方的なグチに面倒くさいと感じたりする。だがそうした感情は、何も異性との付き合いが恋人どうしとならなければ発生しないわけではないし、そもそも男女の関係において恋人どうしであることが最上級なわけでもない。

 でも、エリとどんな具合に仲が良いのかについて、他の人に詳しく語りたい気分にはなれない。言葉に当てはめると、どんな人間関係も揺らぐ。

 この引用の直前に、淳之介は梅田さんに対して「妙齢の男女が友だちになれるものですかね?」とたずね、「そりゃ、なれるよ」と梅田さんが返すのだが、その少し前に淳之介とエリコはふたりで美術館にでかけていて、彼女と恋人としての関係をもつべきかどうか考えていた。けっきょくのところ、「つき合おうよ」という言葉が淳之介の口から出ることはないのだが、無理にそうした関係に落ち着かせるのではなく、今のままの関係――既存の言葉では説明しきれない立ち位置を継続していこう、というひとつの決意表明だと言えなくもない。それは、ある種の人間からすれば、たんなる臆病な人間の言い訳のように映るかもしれないが、あらゆる男女の関係を恋愛という言葉で結びつけてしまうことへの疑問が、本書の根底にはある。

 高円寺の商店街の名前や「ビックカメラ」など、きわめて具体的な名称がちりばめられた本書の世界で、淳之介を中心とする人間関係は、甘酸っぱいものからドロドロしたものまで、さまざまな感情に彩られ、緊張したり緩和したりしていく。ときには、それまでの関係がご破算になるのではないか、と思えるほどのお互いの感情が激しく衝突したりもするのだが、時間の経過やちょっとしたイベントを通じて、またお互いに近づいていく。そして、私たちはふと、人と人との関係について、思いを巡らせずにはいられなくなる。さまざまな出会いと別れを経て、それでもつづいていく人間関係とはどういうものなのか、ぜひともたしかめてもらいたい。(2010.02.01)

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