【講談社】
『狐寝入夢虜』

十文字実香著 
第47回群像新人文学賞受賞作 



 世間体というのはなかなかにやっかいなものだ。たとえば、私はもういい年をした大人であるが、その「いい年をした大人」が、仕事に精を出すでもなく、日がな一日外でブラブラしていれば、まず間違いなく「世間体が悪い」ということになってしまう。なぜなら、人間社会のなかで生きる「いい年をした大人」は、手に職をもつか、どこかの会社に勤めるかして賃金を得て、そうした活動によって社会の維持に努めるべきだという考えが根底にあるからだ。もしみんながみんな勝手気ままに生きていくことを許すなら、人間社会は苦もなく崩壊してしまうし、そうなってしまっては私たちの生活は、間違いなく荒廃したものとなってしまう。

 もし「世間体」について説明を求められたとしたら、とりあえずこんなふうに答えることになるだろう。だが、この「世間体」という言葉の本質をもう少し掘り下げて考えていくと、けっきょくのところ「他人の目」ということに落ち着いてくるように思える。自分が他人からどのように見られているか――社会生活を円滑に進めていこうとすれば、できるだけ他人から奇異の目で見られるような言動は控える必要がある。他人から奇異の目で見られないようにするためには、大勢の人がやっていることと同じことをしなければならない。だが、そんなふうに社会に自分を合わせていくうちに、もしまぎれもない自分自身の気持ちを見失うようなことがあれば、なんともつまらないことだという考え方もある。

 自分をとり巻く社会の価値観と、自分の内にある価値観とのあいだには、多かれ少なかれ差異がある。その差異が生きていくうえで問題となったときに、解決方法は自分の価値観を変えるか、社会の価値観を変えるかしかない。そのような視点で本書『狐寝入夢虜』をとらえたとき、そこにはなかなか面白い人生哲学が見えてくることになる。

 鳥子ははじめから存在しなかった思い出の中に生きていた。紛い物であるという事、善くも悪くもそれだけが彼女の価値だった。

 本書は上岡鳥子という女性の物語である。ということは、鳥子はこの物語の主人公ということになるのだが、この主人公、およそ主人公として物語を牽引していこうという気概はおろか、そもそも自分が主人公であるという自覚もないらしく、物語の語り手を別の誰かに丸投げしてしまっているところがある。つまり本書は、作品内の世界がつくりものであること――なんらかの人格をもつと思われる何者かによって語られている、虚構の世界であることが大前提として、話が進んでいるのである。

 小説を書くうえで、リアリティは重要な要素のひとつだ。それは小説の読み手に、それが虚構の世界であることを感じさせない技術でもあるが、この点に粗があると、読み手は純粋に物語を楽しむことができず、かえって気分が削がれてしまうことになる。だが本書の場合、鳥子という人物について別の誰かが何らかの評価を下しているような文章があちこちにちりばめられている。にもかかわらず、その「誰か」とは誰なのか、本書のなかではいっさい説明されていない。

 正体不明の「誰か」によって語られる、鳥子の物語――それは、小説の構造としては非常にあいまいで、危ういものを秘めている。じっさい、本書のなかの鳥子という人物は、どこか紛いものめいたところがある。紛いもの、という言葉が不適切であれば、どこか演じているような雰囲気がある、と言い換えてもいい。自由気ままな怠け者で、仕事に就いてもけっして長続きせず、にもかかわらず「仕事してやっていた」という尊大な態度をとることをはばからない、良くも悪くも風来坊的な性格をもつ鳥子は、基本的に世の中を面白おかしく、自分の都合の良いようにとらえて、将来のことや先々の計画などおかまいなしのその日暮らしめいた生活をつづけているのだが、あえてそんな生活をつづける哲学のようなものがあるのかといえば、そんなふうでもない。「自由家としての気迫、誇り高き怠け者としての気迫」が、いつか身につけばいいなあ、と漠然と思ってはいるが、そのために何か努力をするというわけでもない。

 鳥子にあるのはただひとつ、この世そのものが紛いものでしかない、というある種の達観である。彼女の性格は、まさにそうした達観から生じているものだとも言えるのだが、同時に彼女にとって何が真実なのか、という視点がいっさい存在しない。だからこそ、たとえこの世が紛い物であったとしても自暴自棄になることはないし、まぎれもない自分自身というものに固執する必要性も感じていない。紛い物であるなら、紛い物にふさわしい人物を演じていけばいいだけ――そこに本物も偽物もない、というのが、彼女の根底にはある。

 結局鳥子に分かったのは、この世とは狐が尻尾を一振りして出来た如きものなのではないだろうか、という事である。

 そして面白いことに、物語が進むにつれて、鳥子から見る世界が次第に現実から、それこそ狐に化かされた人が見る夢幻へと移行していくような雰囲気がある。気の向くままに町を歩き、神社の裏手を抜けていくにつれて、現実と幻の境目がかぎりなく曖昧になっていく瞬間が、何度となく読者を襲うことになる。そしてそれは、他ならぬ鳥子自身が感じとっている世界の様子でもある。本書に収められたもうひとつの作品である『水酔日記』では、鳥子は古本屋の看板娘に納まっているが、そこでの仕事はもちろんのこと、古本屋の息子である橘との関係も、そんな彼になかば強引につれてこられた市民プールにおける、インストラクターの男性との妄想めいた恋も、どこかおままごとめいた、妙に現実味のない出来事として、当の本人が自覚しているようなところがある。そして、だからこそ本書の作品は油断がならないのだ。

 「狸寝入」といえば、本当は眠っていないのに寝ているフリをすることであるが、では「狐寝入」とは、そもそも自分が起きているのか眠っているのか、それすらよくわからないような、そんな心持ちのことを指すのだろうか。あらゆる事柄が不安定な世のなかにあって、鳥子の生き方はどこまでもしたたかで、魅力的である。(2010.02.07)

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