【中公文庫】
『季節の記憶』

保坂和志著 



 私たち人間は、けっして特別な存在ではない。無限の広がりを見せる大宇宙にとって、ほんのちっぽけな銀河系のなかの、そのまたちっぽけな惑星のひとつである地球上で生きているちっぽけな私たちなど、まさに塵にも等しい存在でしかなく、また私たちは神の分身として最初から完全な今の形を与えられたわけではなく、原理的には目に見えない単細胞生物と同じ仕組みを持った、連綿とつづく進化の一過程に位置している生物のひとつにすぎない。言葉という道具を発明し、好奇心のおもむくままに自分たちの文明を発展させていった結果、私たちは良いことも悪いことも含めて、いろいろな真理を知ることになったが、それとても、宇宙の真理に比べればごくごく断片的な事柄でしかなく、私たちはけっきょくのところ、宇宙の真理はおろか、自分自身の存在意義さえ確立できないまま、生まれては子供を成して死んでいく、という生成流転の輪の一部に組み込まれて生きることを余儀なくされている。

 そうした生の空しさ、悲しさといったものに対して、あるいは大石圭の『死者の体温』のように、命の価値を限りなく軽いものとしてとらえるのも確かにひとつの考え方だと言えるだろうが、本書『季節の記憶』の著者である保坂和志は、人の命、その一生というものを、言葉によって安易に定義づけすることを拒否しているし、そもそも定義づけできるとも考えていないように思える。本書に限らず、著者が書きつづけている、どこにでもある場所で、ありふれた人々が繰り広げる何気ない日常生活は、ある意味、自分たちの存在の限りない軽さを自覚しながら、それでもそのことに対してけっして悲観したりせず、あくまで自然なこととして受け止めて生きていこうという、著者なりのひとつの答えを提示しているように思えるのだ。

 本書に登場する「僕」は三十八歳、現在は妻と離婚し、去年の五月に引っ越してきた鎌倉の稲村ヶ崎にある借家で、五歳になる息子の圭太と二人で暮らしている。そして、そこから三軒離れた斜向かいの家には、なんでも屋をやっている松井さんと、彼の二十歳年下の妹、美紗が住んでいて、ちょくちょく遊びにくる圭太を邪魔とも思わず、遊び仲間になったりしてくれる。「僕」はこのちょっとした近所づきあいというか、人間関係が気に入っていて、できれば長くつづいてほしいと思っている。

 永遠に続くものなどけっして存在しないし、世の中は今や猛烈な勢いで変化しつづけているし、むしろ変わっていくことを奨励しているような風潮さえあるのが現代という時代なのだが、本書の中で展開されるのは、むしろそんな風潮に逆らうかのような、なんてことのない日常生活だ。燃えるような恋が芽生えるわけでも、殺人事件が起こるわけでもなく、せいぜい事件らしい事件といえば、出戻りで引っ越してきた福島夏子の娘のつぼみと圭太が、文字の読み書きのことでケンカしたことくらい――それも三日もすればケロッとした顔で元のように遊んでいたりする程度のものくらいで、あとは毎日している散歩で見られる鎌倉の海や山の風景や、その季節の移り変わり、息子の圭太がしているひとり遊びの様子や、圭太が持ちかけてくる数々の質問――「時間って、どういうの」とか「紙をずうっと半分に切ってくとどうなるの」とかいった、まさに子供特有の質問に、父親である「僕」がどんなふうに答えているか、といったようなことが書かれているのである。

 ところで、「何気ない日常生活」、という表現を、私たちはじつに何気なく使うが、そもそも「日常」とは何なのだろう? 私たちが「日常」という言葉を使うとき、そこには例えば、近年問題となっている少年たちによる凶悪犯罪のインタビューなどで、その少年のことを訊かれたときに判で捺したように返ってくる「ごく普通の子でした」という表現と似たような匂いのあることに、あるいは気がついている人もいるかもしれない。「日常」「普通」――本当はそんなものはありはしないのに、そうした言葉で自分たちの周囲にあるものすべてをひとくくりにしてしまうことで、私たちは知らず知らずのうちに、周囲にあるものをあたり前だと思い込み、その存在を忘れようとしているに過ぎないのである。

 それで言語の機能とは何かといえば抽象化とか象徴化とかのことで、襖の模様にしても息子にはまだそれが生の模様として映っているから憶えているけれど、言語の象徴化に習熟した(習熟してしまった)大人の三人にとっては、襖の模様なんか象徴化の過程でとっくに切り捨てられてしまった物で――(中略)――"ただの襖"として括られてしまうことになるのだろう、と僕は言った。

 村上龍が「現実の向こう側にあるもの」にこだわりつづけ、そうした非日常(だと私たちが思い込んでいるもの)を読者に突きつける小説を書いているのに対し、著者はあくまで現実そのもの――私たちが抽象化し、意識の外に放り出してしまった「日常」にこだわりつづけ、それを著者なりに再構築しようとしている、と言うことができるだろう。

 だが、そういう意味で著者が再構築した「日常」は、じつはすでに「日常」ではなくなっている。実際、圭太が「僕」に訊いてくる質問も、彼が行なうひとり遊びも、鎌倉の移り行く景色も、散歩の途中で立ち寄るオバケ屋敷も、まぎれもない「日常」であるにもかかわらず、それらはひどく新鮮で、面白い。そしてさらに興味深いのは、本書に登場する「僕」も、松井さんも美紗ちゃんも、「クイちゃん」こと圭太も、誰ひとりとして自分が特別な存在――自分がまぎれもない自分自身である、ということに大きなこだわりを持っていない、ということである。自己を主張することが大事だと考え、誰もが人より目立ち、より劇的な人生を送りたいと考えているなかで、そんな彼らの存在は、どこかホッとさせられるものを感じる一方で、ひどく哀しいものも感じる。まさに美紗ちゃんが言うところの「不思議な悲しさ」である。

 私は著者の『この人の閾』を読んだときに、真紀さんが語った台詞――「だって、読むってそういうことでしょ」という台詞が、じつはずいぶん長いあいだ引っかかっていた。なぜ、彼女は自分の読書経験はもちろん、そのことで考えたさまざまなことを、どこかで表現しようともせず、自分の死によってそのすべてが無に帰することを「そういうこと」として受け入れることができるのだろう、と。だが、それはあるいは、自分という存在、そして人間という種そのものが、けっして特別な存在ではない、という自覚から来ていたものであるとするなら、共感はできないかもしれないが、少なくとも理解はできるかもしれない、と私は思うのである。そして、著者が本書の中で展開するそうした考えに、深い哲学めいたものを感じるのは、はたして私だけであろうか。

「日常」という名の非日常を描くことで、私たちの周囲にあるあたり前を再認識させようとする本書を、ぜひ読んでもらいたいものである。(2000.09.24)

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