【幻冬舎】
『真剣師 小池重明』

団鬼六著 



 将棋というと、私の場合、挟み将棋や回り将棋、将棋崩しといった、正規ではない遊びのほうを小さい頃に好んでやっていた覚えがあるのだが、もちろん、正式な将棋の指し方も知ってはいた。私の実家には将棋ばかりでなく、なぜかチェスも置いてあって、当時の私は両方とも一応の遊び方を心得ていたのだが、チェスは取った相手の駒は捨てられるばかりで、盤面がだんだん寂しくなっていくのに対して、将棋では取った駒を自分の持ち駒として使うことができ、そのあたりが西欧と日本の、敵味方に対する考え方を象徴しているようで、今になって考えてみるとなかなかに面白かったりする。

 ところで、将棋の腕前はどうだったのかというと、私の場合はてんで弱かった。自陣を守ることを考えるとそればかりに固執し、大駒を使って攻めるとなると、そのことだけで頭がいっぱいになり、盤面全体を俯瞰し、相手の指す手を予想して臨機応変に戦略を組み立てるといった才能が、私には決定的に欠如しているのだ。そしてそうした勝負事に関する才能は、学校のテストで良い点数を取るといった才能とはまったく無縁のものであり、また学校などで教えてもらって身につくようなものでもないだろう。

「真剣師」という言葉をご存知だろうか。これは一局いくらで金をかけて将棋を指す、言ってみれば将棋のギャンブラーのことであるが、本書『真剣師 小池重明』を読んで、将棋にも麻雀や競馬と同じように、賭け事の成立する世界があった、という事実にまず驚かされた。今でこそプロ棋界、アマ棋界ともに健全な平和ムードに満たされているが、かつて、多くの真剣師たちが大金のかかった一局一局の勝負にしのぎを削っていた時代が、たしかに存在したのだ。本書はそんな真剣師のなかでも、とくに異端の強豪であり、どうしようもなく破滅的な人生を送った小池重明の生涯を綴った実録集である。

 人間の純粋性と不純性を兼ね合わせていて、つまり、その相対性のなかで彷徨をくり返していた男である。――(中略)――多くの人に徹底して嫌われる一方、また、多くの人に徹底して愛された男である。

 酒におぼれ、女におぼれ、そのせいで窮地に立たされたあげく、自分を庇護してくれる立場の人間から黙って金を借用しては、逃亡をくり返す。人妻との駆け落ちは3回にもおよび、寸借詐欺をやらかしてプロ・アマの棋界から永久追放された、およそ放埓のかぎりを尽くした小池重明の人生は、その部分だけをとりあげるなら、誰の目から見てもまともなものでないのは明らかだ。真面目に働くこととは決定的に縁のない、言ってみればごくつぶし――だが、著者である団鬼六の、彼に向けるまなざしは、その人間としての致命的な欠点にあきれはてつつも、どこか、その救いようのない破滅的性格に対するいとおしさにも似た感情がある。

 もちろん、小池重明の将棋の比類なき才能に魅了された、というのもあるだろう。じっさい、その怪物的な強さを示す数々のエピソードには、著者の小池将棋に対する並々ならぬ思い入れの強さが感じられるのだ。もともと序盤が悪く、中盤になって相手の攻めを封じにかかり、終盤にあざやかな逆転を見せる、というのが小池の将棋であり、序盤につまづくことを怖れるプロ棋士たちには、それだけでも破天荒な指し方なのだが、そこに著者の表現力がくわわると、以下のような文章になる。

 このとき、私は小池の終盤における華麗なばかりの寄せをまざまざと見せつけられたのである。寸分の狂いもなかった。桂を捨て、銀を捨て、中央に引き出した伊藤三段の玉の頭に□5五飛が打ち降ろされたとき、小池の樫の木剣が伊藤三段の脳天めがけて打ち降ろされたような気がした。

 プロ棋界の四段や五段の位を持つ棋士では歯が立たない。負けてもなお勝者に「次は勝てるかわからない」と言わしめるほどの強さを見せつけ、当時棋聖挑戦者であったプロ八段にさえ勝ってしまう。さるアマ強豪の大会では、優勝賞金を小池に持っていかれないよう、決勝トーナメントの組み合わせ決定方法が人為的に細工されたほどである。「新宿の殺し屋」「プロ狩り」とまで呼ばれ、畏れられてきた小池重明であるが、その凄まじいまでの才能にもかかわらず、人生においてその能力をほとんど生かしきることのないまま、最期には精神にまで変調をきたし、44歳という若さでこの世を去ることになる。

 ある方面においてたぐいまれな才能を発揮する人間を天才と呼ぶなら、小池重明は間違いなく「天才」であった。だが、たとえば将棋道場を建てようとあちこちから金を工面するものの、たちまち女におぼれてその資金をすべて使い果たしてしまい、アマ名人のタイトルをとればとったで、そのことが仇となって真剣師として相手する者が寄りつかなくなり、おそらく唯一残された道だったプロ棋士への夢も、それまでの素行の悪さが災いして潰えてしまうのを見るにつけ、人として得るべき幸せを望みながらも結局は大きな破滅へと暴走してしまう数奇な運命を思わずにはいられない。そして、読者は考えるのだ。はたして彼にとって、将棋とは何だったのか、と。

 じつはそのあたりの心境については、本書にもはっきりとは書かれてはいない。小さい頃は三度の飯よりも将棋が好きだったという将棋狂いのエピソードがあるが、真剣師として成りあがっていく頃には、勝負に勝つことよりも賞金がもらえることのほうが嬉しかった、とも書かれており、かといって将棋界を追放されて将棋が指せなくなると、その孤独にはどうしても耐えられないと語ったりする。おそらく、そのときそのときの彼の言葉は、どちらも真実なのだろう。どうしようもなく好きな将棋、その将棋を指して得られる金――だが少なくとも、著者は小池のそうした言動に悪意がない、ということだけは把握していた。純粋性と不純性という二律背反にさらされて、まるで坂道を転がり落ちるかのように破滅していく小池の人柄には、当初彼を遠ざけようと次々と強豪と対戦させ、完膚なきまでに叩き潰そうと画策していた著者が、いつの間にか小池を応援する立場に回っていた、というエピソードが象徴するような、どこか放っておけないものがたしかにあったのだ。

 たぐいまれな才能と、人としての決定的な欠点を併せ持ったがゆえのアンバランスさに、なかば翻弄されながら生きた小池重明の人生は、そのアンバランスさをなんとか統制しようともがきつづける人生でもあったことが、本書を読むとわかってくる。著者の手によって明らかになったひとりの真剣師は、あるいはこのときはじめて、「天才」でも「ごくつぶし」でもない、あたりまえの「人」として扱われたのかもしれない。(2003.11.01)

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