【河出書房新社】
『履き忘れたもう片方の靴』

大石圭著 
第30回文藝賞佳作受賞作 



 どうして人間には心などというものがあるのだろう、と思うことがある。仕事の関係で、会社の人間や取引相手とトラブルを起こしたとき、付き合っていた彼女に別れ話を切り出されたとき、ホームページの掲示板に何日も書き込みがされていないとき――腹立たしいとか、悲しいとか、寂しいとかいった感情を引き起こす心がなければ、複雑な人間関係に振りまわされることもなく、もっと効率のいい生き方ができるのに、と。自分の意思とは関係なく、胸の内から湧き上がってきては、私たちの身体に予想外の行動をとらせることもある感情は、自分の思いどおりにならない、という点で、非常に面倒くさい代物だ。だが、心とは、他人の気持ちを思いやる想像力を生み出す場所でもある。最近巷を騒がせている事件の数々をまのあたりにするにつけ、そうした心のはたらきがどこか壊れてしまっている人間が、多くなっているのではないかと思えてならない。

 僕は人の顔を長く覚えていることはできない。けれど、精液の味は一人一人違っていて、その味だけはいつまでも覚えている。

 こんな衝撃的な文章からはじまる本書『履き忘れたもう片方の靴』は、ヒカルという名の男娼の話である。しかし、男娼という言葉を使いはしたものの、ヒカルに男娼という職業意識があるのかどうかは甚だ疑問だ。この女と見紛うばかりの美少年には、生活の匂いがまったくしない。どのくらい働いたらどのくらいの収入が得られ、どういったものが買える、とかいうことをまったく考えない。それどころか、自分の意思で何かをしようとか、これはやりたくないとかいう判断さえ放棄しているように見える。彼が何をすればいいのか、決めるのは周囲の人間であって、彼ではない。そして、彼は命じられたことにけっして反抗しない。ヒカルはただ、自分を買った人間に言われるままに行動し、奉仕する性の玩具となる。そこには、「死ね」と言われれば何のためらいものなく死んでしまいそうな、一種異様に乾いた雰囲気が漂っているのである。

「気持ちの悪いものなんて、昔から何もない」「僕は今日まで、怖いと思ったことは一度もない」とヒカルは語る。行きたい場所も、欲しい物もない。何もない。ないないづくしの真っ白な世界の真ん中で、ただ茫然と立ち尽しているかのようなヒカル――しかし、そんな彼の体が唯一感じるのが、性欲である。ただし、それは普通の健康な男子が感じるような、能動的な性欲ではない。それは、他人のペニスをくわえ、精液を飲みほすこと、太いバイブレータでアヌスを犯されること、奴隷となって背中に鞭打たれることによって得られる、受動的な快楽だ。およそ人間を貶めるのにこれ以上のものはない、というような行為に対してさえ、あるいはヒカルは何も感じるものがないのかもしれない。だが、客にそのような行為を強いられるたび、彼の欲望器官であるペニスは確実に反応し、勃起する。ヒカルにとっては、それだけが唯一、自分が生きているという証拠なのだ。

 人間から人間らしさを取り除いたとき、そこにいったい何が残るのか――著者が小説という虚構の世界で表現しようとしているのは、そういったことではないだろうか。同じく彼の書いた『死者の体温』という小説には、猟奇的連続殺人魔の安田祐二という男が登場するが、彼とヒカルは、じつはとてもよく似ている。ただ、安田祐二が他人の命を奪いつづけることで自分の生を実感していたのに対し、ヒカルは自分の体を痛めつけることで、自分の生を実感しているという、それだけのことなのだ。

 最近、楽しいとか嬉しいとか思うことがずいぶん少なくなってきたように思う。あるいは、そんなことを思うのは私だけなのかもしれないが、人々がより大きな刺激を求めてどんどん奇抜な格好をしたり、過激な行為に走らせているのを見るにつけ、世の中全体が不感の時代を迎えつつあるのではないかと思えてならない。
 自分の体をまったく顧みないヒカルは、精神だけでなく肉体そのものも改造され、男性器を持ちながら女性のような乳房をもち、全身を脱毛したシーメールとして生きることになる。両方の性を併せ持つ、人間の手によって生み出された人工の神――それは、世俗の感情に縛られて生きる人間とはまったく別の次元を生きている、ヒカルのような人間にこそふさわしい役割なのではなかろうか。(2000.01.02)

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