【新潮社】
『金春屋ゴメス』

西條奈加著 
 第17回日本ファンタジーノベル大賞受賞作



 とくに最近にかぎった話ではないのかもしれないが、江戸時代の生活が見直されつつある、という話を聞いたことがある。

 日本人は昔から、テレビでも小説でも時代物が大好きな人種であることは周知の事実であるが、日本の過去の時代のなかでも、特別人気のあるのが戦国時代と江戸時代である。戦国時代の魅力は、なんといっても天下統一という大きな野望が男のロマンをかきたてるものがあり、さながら中国における「三国志」のような壮大さを感じ取ることができる点にある、と想像することができるが、では江戸時代の魅力とは何なのかを考えたとき、たとえばミステリ作家の宮部みゆきが、ファンタジーのほかには江戸の人情ものをあつかった作品ばかりを好んで書くようになったことなどを考えると、やはり今の時代にはない――あるいは今ではすっかり廃れてしまった、独特の人間関係や生活習慣が、人を惹きつけてやまないのではないかと思うのである。

 言うまでもないことだが、江戸時代というのは鎖国政策によって国外との交流がかぎりなく制限され、それゆえに独自の文化が発展した時代でもあるが、ある本によると、江戸時代はリサイクルという概念が極端に発達していたということである。国際貿易がなく、物資の調達のほとんどを国内で賄わなければならない以上、物を大事にする、お互いに助け合うといった風習は、なるほどおおいに納得させられるものがある。たとえば、使い古した箒の先を、たわしとして再利用するための職人がいたというのだが、現在の、下手に修理するよりは買い換えたほうがまだ安上がり、という時代とは、いわば対極に位置する江戸時代というものは、たしかに今の時代の流れをどこかおかしい、なじめないと感じている人たちにとっては、このうえなく魅力的に映る時代なのかもしれない。

「携帯は?」
「もちろんいけません。なにより電化製品気は一切使用できません。電気が通っていませんから」

 本書『金春屋ゴメス』という作品にも、「江戸」という名の国家が登場する。というよりも、本書の舞台となるのはまさにその「江戸」に他ならないのだが、ただし、その「江戸」がかつての歴史のなかにあった江戸時代とは異なったものであることは、本書を読んでいくとおのずとわかるようになっている。時代は未来、それも、人類が月で生活することさえ可能となった未来であり、ここに登場する「江戸」という国は、今から三十年前に非公式ながらも日本から独立した国家として、かつての江戸時代のように、鎖国と専制君主を旨とする独自の政策をつづけているところなのだ。

 まさに現実にはありえない架空の国家を描いた本書であり、それこそがファンタジーとしての醍醐味に通じるところであるが、一度入国したら最後、出ることはできても再び入国することは許されない、というきわめて厳しい入出国管理をおこなう「江戸」に、ふたたび入国が許された人物が、本書の主人公ともいうべき佐藤辰次郎である。じつは、彼の両親はもともと江戸人で、辰次郎もそこで生まれ育った江戸生まれなのだが、彼がまだ小さい頃に江戸を離れ、日本人として生活してきたという経緯がある。辰次郎はそれまで自分はふつうに日本で生まれ育ったものと信じていたのだが、肝臓の病気で余命いくばくもない父――それも母と離婚してしまった父から、自分がもともとは江戸の生まれであることを知った辰次郎は、超高倍率の江戸入国の当選を機に、新規入国者として「江戸」に向かうことになる。

 あくまで外から「江戸」に入った人間の視点で、科学技術の発達した未来の日本から、まるで中世にタイムスリップしたかのような錯覚さえ抱かせる「江戸」の様子を描くことで、本書の舞台となる特殊な世界を際立たせようという試みは、けっして「江戸」という異世界やそこに住む人たちをキワモノあつかいするものではない。水道もなく、地下鉄もなく、そもそも電気さえ通っていない「江戸」は、何をするにしても重労働につながるものが多く、今の生活を知る人たちにとっては不便なことこのうえない世界であるが、主人公の辰次郎は、そんな不便な世界のなかにあって、それでもなおその不便さにある種の快さを覚えているところがある。

 彼の身元を引き受けることになった「金春屋」は、表向きはその安さと美味さで有名な一膳飯屋であるが、裏では長崎奉行所の出張所として、抜け荷の監視をはじめとする江戸内の揉め事を取り締まる仕事をしており、辰次郎はそこの雇い人として働くことになる。人間離れした巨体と容貌(しかも女性!)で、「ゴメス大明神」の名で誰からも恐れられている長崎奉行をはじめ、筋のとおったような性格の先輩たちになかばどやされつつ、公私の区別がほとんどないような生活がつづくなか、物語はしだいに、辰次郎の幼いころの「江戸」の記憶へと焦点が移っていく。ここ数年「江戸」で流行している奇怪な伝染病――効果的な予防法がなく、罹れば間違いなく死にいたる「鬼赤痢」を治療する唯一の鍵が、辰次郎の過去の記憶のなかにあるという。それにともなって、彼の両親がなぜ「江戸」から出ていくことになったのか、そのあたりの経緯についても、徐々にあきらかになっていく。

 はたして、辰次郎は過去の記憶を思い出すことができるのか。そしてそんな辰次郎をつけねらっている連中の正体は? 物語の展開としてはミステリー的な要素も絡めてある本書であるが、その最大の特長は、本書の舞台となる「江戸」が、まさにまがいものの江戸でしかないというそのギャップを、物語の核心として逆に利用している点にこそある。中世に実在した江戸時代との最大の違いは、本書の「江戸」が、じっさいにはその外に科学技術の発達した便利な世界が広がっているということ。「江戸」を「江戸」たらしめているのは、一度出たら二度と入国できないという、厳しい鎖国政策によるものであることは間違いないのだが、それでもなお「江戸」という不便な国で生きることを選ぶ人がいるからこそ、本書の世界は成立している。病気になれば基本は自然治癒にまかせるしかない、という医学的にも遅れた世界で、あえて不便な生活に身を置く人たちのなかにあるのは何なのか? それこそが、本書における最大のミステリーであり、またその答えを表現するためにこそ本書は書かれたと言っていいだろう。

 本書に登場する「江戸」には、かつての江戸時代にあったような厳格な身分制度についてはとくに強調されてはおらず、そういう意味でもたしかにまがい物の江戸でしかないのかもしれない。だが、重要なのは何が本物なのかということではなく、どのような生き方を選ぶのか、という点である。今はたしかに便利な世の中であるし、インターネットの普及は部屋の中にいながらにして膨大な情報を個人にもたらすようになった。だが、そんな体を動かすことのなくなりつつある今の世界を生きていて、ふと何か大切なものを手放してしまったのではないか、と思うことが私にもある。本来、人間が生きるというのはどういうものであるのか――本書はそんな素朴な疑問を読者に突きつけてくる作品でもあるのだ。(2006.10.06)

ホームへ