【ジャイブ】
『氷の海のガレオン/オルタ』

木地雅映子著 



 人と話をしているときに、自分が今語っている言葉は本当に相手に届いているのだろうか、とふと思うことがある。というのも私の場合、話しているうちに、その内容がしばしば自分の脳内で大きく飛躍するらしく、それを聞いている相手のほうは、唐突に話題が変わったように思えて困惑してしまうことがあるからだ。自分のなかでは、間違いなく理路整然とした道筋があり、話の内容はきちんとつながっているにもかかわらず、相手にはそのつながりがわからない――それは、あくまで私の脳内でのみ行なわれているものであり、相手が困惑するのは当然のことなのだが、そのあたりの会話の機微が、今もなおときどきわからなくなることがある。

 逆に、相手の話を聞いているときに、そこで使われたある言葉の意味について、どこまで理解して話しているのだろうか、と思うこともある。もちろん、自分が納得したいと思うようなときは、その疑問点を素直に相手にぶつけることもあるのだが、人によっては話をさえぎられたことに不快感をしめすようなこともあり、仕方なくわかったようなふりをして聞き続ける、ということもしばしばあったりする。不思議なことに、相手の話が100%理解できずとも、とりあえず人との会話を成立させることができるし、大半の会話がその内容をきちんと理解するためというよりも、たんに言葉のやりとりをするだけの、じつに何気ないもので占められているものだったりする。そのことに気がついたのは、はたしていつのころだったろうか。

 言葉に対する共通の認識が多ければ多いほど、その人と会話をするのは気持ちのいいものであるし、共通認識の少ない人と会話をするのは、気まずいばかりか苦痛に感じられることも多い。だが、言葉の「共通認識」などというものは、いちいち確かめていては到底会話など成立しえない。じつを言えば、私は今も誰かと話をするというシチュエーションが苦手なほうなのだが、人と人とのコミュニケーションというものを考えたとき、もし同じ日本語を使って話しているのに、その意味が話し手によって大きく異なってくるのであれば、コミュニケーションなどというものはたんなる幻想でしかないのでは、と思えてしまうのだ。私たちはけっきょくのところ、お互いに言葉に対して共通の認識をもっている、という幻想のうえでコミュニケーションを成立させているにすぎない、と。

「あなたの言うその“ともだち”って言葉は、いったいどういう存在を表してるわけ?」

(『氷の海のガレオン』より)

 本書『氷の海のガレオン/オルタ』は、著者のデビュー作である『氷の海のガレオン』に、書き下ろしの『オルタ』を加えた作品集というべきものである。『氷の海のガレオン』に登場する斉木杉子は小学六年の女の子だが、クラスの中で彼女は孤立している。杉子はその理由を「自分は天才だから」としているが、彼女自身、それを本気で信じているわけではなく、そんなふうに思い込んでいなければ今の学校生活に耐えられない、というのが本当のところである。

 自分があたりまえのように使っている言葉が、学校のなかでは思うように相手に通じない。同じ日本語を使って話しているはずなのに、まるで自分以外の人間が異星人か何かのように見えて、そのなかにいる自分自身の存在にこのうえない違和感を感じてしまう――ことあるごとにクラスメイトたちに阻害され、からかわれる杉子には、たとえば同年代の子どもたちが夢中になるゲームとかアイドルとかいった「共通認識」となるものに影響されることのない、独自の言葉、独自の世界、独自のものの考え方があった。そしてそれは、彼女が育った家庭環境に大きく関係していることでもだった。彼女の兄弟も、彼女の両親も、どこか他の家庭とはズレたところのある、言ってみれば風変わりな人たちであり、杉子もまたその血を受け継いでいるのだ。

 子どもたちひとりひとりにはそれぞれ個性があり、また育ってきた環境もそれぞれ異なっている。そんな子どもたちをひとつの場所に押し込めれば、当然のことながらそこには小さいながらも社会が形成され、その個性の違いゆえにときに対立し、衝突するものだ。杉子の場合も、そうした人間としての成長に必要な過渡期のひとつとしてとらえることができそうにも思えるのだが、本書を読み進めていくうちに、杉子の学校における「異質」さは、彼女本人の努力とは無関係の、まったく違った部分からにじみ出てくるものであることが見えてくる。

 もし、もっと要領のいい人間であれば、自分の個性をその社会にうまく合わせ、それでストレスなく生きていくこともできるのだろう。そして学校とは、そうした集団生活における協調性を学ぶための場でもあるのだろう。私もそんなふうにして小学校時代を過ごしてきたし、またそうするのがあたりまえのことであり、誰でもできるはずのことだと思い込んできたが、それがけっして唯一無二の真実ではないことを、今の私は知っている。

 それは杉子の父親が、たとえば自営業であるとか、どこかの会社に勤めているといった方法ではない独自のやり方で、それなりに働いて収入を得ているにもかかわらず、そんな彼の仕事を定義づける言葉をその社会がもっていないのと同じなのだ。だが、杉子には今の時点で学校という社会を選ぶ以外の道はない。そしてそれは、彼女のような個性をもつ者にとって、ときには大きな不幸にもなりえる。じっさい、本書のなかの杉子はけっして自分が「天才」であるという孤高を生きていけるほど強くはなく、たくさん傷つき、悩み、苦しんでいる。

 言葉で定義することのできなかった杉子の「異質」さ――ひとつ面白いことに、『氷の海のガレオン』から12年後に書かれた書き下ろしの『オルタ』のなかには、「アスペルガー」という言葉が出てくる。ここでも杉子のような少女オルタが登場し、そんな彼女を見守る母親の視点から物語が進んでいくのだが、オルタの個性に「アスペルガー」という名前がつけられたのは、まさに時代の移り変わりを感じさせるものだ。自閉症やアスペルガー症候群といった脳の障害については、泉流星の『地球生まれの異星人』に詳しいが、彼らの異質さは、その言動によってしか表現できないがゆえに人々に理解されにくく、集団のなかでつまはじきにされることの多いのも事実である。そしてそれは、彼らの努力が足りないとか怠惰であるとかいう問題ではないのだ。本人にとって「異質」な世界のなかで、自身の存在を理解されないまま生きていくことが、どれだけ過酷なことであり、当人たちに多大な無理を強いているのか、そのほんの一端が、本書のなかにはたしかに描かれている。

(運命づけられた共同体の、優秀なる緩衝材)
 この国には、そういうこどもが、たくさんいるのです。

(『オルタ』より)

 『氷の海のガレオン』のなかで、杉子は夢をみる。彼女が家の主とみなしている古いナツメの木が、彼女を乗せた銀の船を操って、氷に閉ざされた海を砕きながら航路を切り開いていく夢――そんなふうに想像の力を借りてでも、なんとかして自分の人生を切り開いていくしかなかった彼女の努力や奮闘は、確実に『オルタ』のなかで生かされつつある。そういう意味で、このふたつの作品がひとつの文庫のなかに収められている、というのは、時代の移り変わりという意味でも非常に象徴的なことだと言えよう。(2007.01.07)

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