【文藝春秋】
『希望の国のエクソダス』

村上龍著 

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 電信柱や送電線が存在しない街並みを、あなたは目にしたことがあるだろうか。電信柱や送電線が街の美観をそこねている、という意見は世界的な共通認識となっているらしく、日本でもいくつかの町が電信柱を取り払い、送電線を地下に埋めることをおこなっているという。もしかしたら、この書評を読んでいる方の中にも、電信柱のない街に住んでいるという人がいらっしゃるかもしれない。
 だが、私たち人間というのは、必ずしも合理性ばかりを考えて生きているわけではない。もちろん、無駄に生きることや変に遠まわりをすることが良い事だと言うつもりはない。だが、私たちにとってすでに見慣れた風景のひとつである電信柱や送電線が消えてしまった街をまのあたりにしたとき、あるいは私たちは、あまりに青い空が剥き出しになってしまった頭上の光景に対して、何かもの足りないものを感じてしまうかもしれない――ふとそんなふうに考えてしまうのだ。

 シンプルで機能的なものというのは、無駄なものがまったくない、ということだ。だが、それは同時に人間らしさの象徴とも言うべき欲望の欠如したものでもある。人より多くのものを持ちたい、権力を手に入れ大勢の人を支配したい、女が欲しい――なんでも構わないのだが、そうした欲望に結びつくのは「生きたい」という、生物が本能的に持ち合わせている欲望である。だが、教師刺殺事件や連続通り魔殺人事件、バスジャック事件や無差別殺人など、昨今の少年たちによる凶悪犯罪を見ていると、あるいはそうした「生きたい」という欲望すら希薄なのではないか、という気がしてならない。

 はたして村上龍という作家の目に、そうした十四歳の少年少女たちの姿は、いったいどのように映ったのだろうか。その答えが、本書『希望の国のエクソダス』にある。

 アフガニスタンのある部族に混じって生きる、もと日本人少年――劣悪な環境のもとで地雷処理をつづけている、しかしその目に確かな自信と自立心、そして部族とともに生きることへの誇りをたたえたその少年の姿を映した、わずか数分の、日本の外から流れてきた映像、それがすべてのはじまりだった。
 全国の中学生、とくに十四歳になる中学二年の少年少女たちがある日、学校に行くのをやめた。自分達が本当に知りたいと思っていることにまともに答えようとせず、上から力で押さえつけ、言うことを素直に聞く従順な子供、自分でものを考えるのを放棄するような人間をつくり出そうとしている学校――独創性を持ち、自由な発想ができる人間を社会が望んでいるにもかからわず、相変わらず旧来の教育方針を変えようとしない教育そのものに、彼らは自分から背を向けることを選んだ。本書はフリーの取材記者である関口の目を通して、六十万人の不登校児たちによるネットコミュニティ――とくにアフガニスタンの少年、「ナマムギ君」と呼ばれるようになった少年への取材のために、パキスタンへ向かう途中で知り合ったナカムラ君やポンちゃんといった少年たちの、後に世界じゅうを驚愕させる活動の様子を描いた物語である。

 今のこの日本という国に対して、どうしようもない閉塞感を抱いているのは、きっと私だけではないだろう。それは小説家たちにとっても同様であり、先の見えない未来への不安や、あらゆる価値観の崩壊した暗澹とした現実世界の姿を描いた作品は、それこそ枚挙にいとまがないほどである。だが、本書に限って言うならば、おそらく村上龍ほど今の日本の現状を正確に把握している作家はいない、と断言していいだろう。著者が以前に書いた『五分後の世界』は完全な「if」の世界、架空の世界観を描いたものだったが、本書は二〇〇一年という、間近にまで迫った未来の話だ。それだけに、著者が第一に物語のリアリティを重要視したのは言うまでもないだろうか、何より特記すべきなのは、近未来の政治情勢や経済の混迷の様子などを、具体的な数字をまじえて、きわめてリアルに描いているにもかかわらず、それでも確かなこと、大事なものが何ひとつ見えてこないという、居心地の悪さとでも言うべき雰囲気を、本書の中で見事に再現していることだ。それは、溢れんばかりの情報に恵まれ、いつでも好きなときに情報が得られる立場にいるにもかかわらず、肝心なことは何もわからないときに味わう居心地の悪さにも似ている。

 関口が指摘するように、アフガニスタンの少年の存在は、出口のない迷路をさまよっているかのような閉塞感を抱いていた中学生たちに、出口はたしかにあることを指し示した。その事実が触媒となり、全国の不登校児たちがネット上の「ナマムギ通信」を通してゆるやかに結びついたとき、本書のタイトルにもあるように、自分たちを取り巻く世界からの「エクソダス」――脱出を開始する。全国六十万の中学生を要する巨大なネットコミュニティの力を利用して、ナカムラたちは中学生でありながらネットビジネスを開始するのだが、彼らはけっして金儲けのためにビジネスをはじめたわけではない。それが彼らにとって唯一の生きる手段であったからに他ならないのだ。しかしながら、関口は大人でありながら限りなくナカムラたちの側に近い場所にいる――それはあるいは、彼が結婚などという既成の価値判断に縛られない生き方を、同棲相手の由美子とともにしているがゆえなのかもしれない――にもかかわらず、中学生たちのビジネスが海外の業者の信用を得て、億単位の金を稼ぎだし、彼ら独自の職業訓練学校を設立したり、さらに日本が自国の面子のためだけに構想したアジア通貨基金が引き起こした円通貨の危機に対しては、たくみな情報操作をおこなうことさえやってのけてしまう彼らの存在そのものに、どうしてもリアリティを感じることができないでいる。

 それはそうだろう。彼らが行なおうとしているのは、日本という国が持つ以上の力を発揮する「信用」を、一から生み出す行為に他ならないのだから。これまでまったく存在しなかった物事に対して、いったい誰が想像をはたらかせることができるというのだろう。とくに、まやかしにすぎないことを知っていて、なお既存の価値観にとらわれてしまっている、私たち大人にとって。

 目の前の少年たちはつるんとした感じがする。コミュニケーションがうまくできないわけではないし、想像力がないわけでもないのだが、自分たちの言動が相手に何らかの影響を与えるという意識が彼らには希薄なのではないだろうか。彼らは圧倒的な情報を浴びながら育った。情報は一方的に押し寄せてきてこちらからレスポンスを返すことはできない。――(中略)――言い換えれば、それは他者や外界の反応を期待できなかったということだ。

 深刻な問題を抱えているはずの日本の未来について、誰も真面目に考えようとしないし、明確なビジョンを示すことができないどころが、一個の人間としてどのように生きるべきなのかを教えることさえできない大人たち、既成権益を守ることばかり考え、人の話を真面目に聞こうとしない大人たち、自分勝手でありながら、自分で何かを考えることを忘れてしまった大人たち――そんな大人たちによってメチャメチャにされてしまっているはずなのに、なぜか平穏で、生きていくのにまったく苦労しないこの国のことを、ポンちゃんは「この国にはなんでもある。だが希望だけがない」と語る。見本となるべきものが周囲に何ひとつなく、自分たちの力で世界に通用する信用を生み出していく彼らの言葉は、既存の価値観のなかに安寧している大人たちのつまらないプライドを、いとも簡単に、しかし容赦なく打ち壊していく。しかも、彼らはそれを意図してやっているのではなく、自分たちにとってはあたり前の真実にすぎないものを、目の前に提示しているにすぎないのだ。その様子は胸のすく思いをさせると同時に、現実のものとしてとらえることができないがゆえに、どこか不安をかきたてる、不気味な存在としても映ってしまう。

 中学生たちが引き起こした凶悪犯罪――彼らがいったい何を考えていたのかは、まさに私たちの想像力の及ばない場所にある。そんな中学生たちの気持ちを、わからないままに物語の形で描いていった本書のなかで、はたして六十万人の不登校児たちは、「希望の国」を見出すことができたのだろうか。(2000.12.09)

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