【講談社】
『家族シネマ』

柳美里著 



 二十年ぶりの一家団欒の図、と書くと、みんなはどんな印象を受けるだろうか。もしかしたら、ずっとわかれわかれになっていた家族が念願かなって一緒に暮らせるようになる、といった、どこかのドラマかドキュメンタリー番組がとりあげそうな、幸せな家族の姿を思い浮かべる人もいるかもしれない。
 だが、とっくの昔にそれぞれの心がバラバラになってしまった家族が、何か外部の力によって無理やり一箇所に集められ、さあ一家団欒で暮らしてください、と言われたとしたらどうだろう。

 本書『家族シネマ』に描かれる家族は、父と母と妹、弟、そして長女の素美の五人。父と母は二十年前に別居し、素美と弟は母と、妹は父と暮らすようになる。放埓な母はすでに母という役目を捨て、水商売に精を出し、妻子のいる別の男と暮らしはじめる。そんな母のもとを素美は三年前に離れ、家族とは縁の切れた生活をおくっていたのだが、うだつのあがらない女優の妹を主役にした映画を撮るため、幸せな家族を演じるひとりとして出演しなければならなくなる。
 素美の家族は、すでに家族として機能しなくなって久しい。にもかかわらず、映画の撮影という名目があるとはいえ、まさしく絵に描いたような円満家庭を演じなければならない状況、さらに、実際に一家団欒を演じようとする家族に対して、素美はただ底知れぬ気味の悪さしか感じることができない。

 一家で暮らしていた二十年前と同じ配置でテーブルを囲んでいるような気がする。確かにそうだ、いつもこの座り位置だった。気詰まりな雰囲気まであのころと変わらない。私たちの間に失われずに今でもしっかり残っているのは、意識が触れ合うたびにショートして憎悪と苛立ちを掻き立てることだ。

 素美にとって、おそらく物心つくころから、家族は彼女の心の支えになり得なかったであろうことは、本書を読んでいけば察しがつく。本書に限らず、柳美里の作品の一貫したテーマは、崩壊した家族なり恋人関係の様子を描くことにあると思うし、おそらく間違ってはいまい。ただ、本書を読みなおしながら、私はふと思う。家族というのが人間が最初に置かれる環境の単位であるならば、その家族を心のよりどころにできなかった素美は、いったい何を生きるよりどころとしているのだろうか、と。
 本書を読んでいくかぎり、素美は終始根無し草のように漂っているような印象を受ける。彼女が今つきあっている池も、会社での仕事も、彼女の存在そのものを支えるほどの力を持ってはいない。一時期、その支えを見つけたような感じだったのだが、最後にはそれも手放してしまう。本書の登場人物が、どれもリアリティーに欠けているような感じがするのは、あるいは心の支えを持つことができない人間を書こうとしているからなのかもしれない。

 それは突き詰めると、自分とは何なのか、そして人間とは何なのか、という究極のテーマに行きつく。自分がほかの誰でもない、あきらかに自分なのだというアイデンティティーの探索は、何不自由することなく豊かで満ち足りた生活をおくりながらも、自分と他人との違いを見つけることができないでいる現代の若者の大きな課題だ。そしてそれは、著者も同じなのだろうと思う。今はただ、いつか素美が、たしかなアイデンティティーを見つけることを願ってやまない。(1999.02.07)

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