【中央公論新社】
『環八イレギュラーズ』

佐伯瑠伽著 



 私たちはふだん、あたり前のように言葉を使い、言葉を介して他人とコミュニケーションをはかろうとするが、自閉症やアスペルガー症候群、あるいは発達障害といった、脳や中枢神経に対する障害について書かれた本を読んでいると、彼らには言葉を「コミュニケーションの道具」として使うことができない、あるいはそうした認識をもつことができない、という問題を一様にかかえていることがわかってくる。これは言うなれば、異星人が地球人のなかにまぎれこんでしまったようなものである。テレパシーしかコミュニケーション能力がないのに、周囲にテレパシーの使える者が誰もいないという状況――そんなふうに考えたとき、こうした障害をかかえる人たちの、この社会における生き難さというものが少しは想像できるように思える。

 基本的に、コミュニケーションの方法が異なる者同士と意思の疎通をはかる機会というと、違う言語体系をもつ外国人との会話というシチュエーションを私たちは思い浮かべるが、相手に伝えたいことがあるのにそれがうまく伝わらない、あるいは相手の訴えていることをうまく読みとることができないというのは、それだけで大きなストレスであり、それゆえにただでさえ細いつながりは、そこで容易に途絶してしまう。話が通じない、言っていることがわからない――そこで思考を停止するか、あるいは相互理解のための一歩踏み出していくのかは、人によって、立場によって、状況によって変わってくるが、場合によっては否応なくかかわらざるを得ない状況に陥ってしまうということもありえる。今回紹介する本書『環八イレギュラーズ』は、まさにそういう状況をつくって物語を進めていくたぐいの作品である。

「考えてみればあたりまえだ。刑事さんは今僕らの思考をじかに読んで受け答えしている。テレパシーで意思疎通できる知性に言語能力が発達するはずはない」

 上述の会話に出てくる「刑事さん」とは、端的に言うなら「宇宙人」ということになる。ただし、有機的な身体を有しているわけではなく、インターネットのようなネットワークを介して存在する、コンピュータウイルスを連想させる知性体である。文明化された惑星のウェブから別の惑星のウェブへと移動することも可能で、そのさいに光の速度の制約も受けないという「刑事」は、自分と同属のウイルス知性体である「脱獄囚」を追って地球のウェブまで来たものの、あと一歩のところでウェブの外――つまり、有機体ネットワークたる人間の体内へのジャンプを許してしまう。「脱獄犯」を追うためには、自分も別の誰かの体内へと入り込むほかにないという結論にいたった「刑事」は、あるサイトにアクセスしていた複数の人間のうちのひとりへとアクセスを試みる……。

 と、これがウイルス知性体側のストーリーであるが、当然のことながらこうした事情が物語の最初から説明されているわけではない。ウイルス知性体に乗り移られた側、つまり人間側にしてみれば、降って湧いたような災難である。同じ個体に三十分以上いつづけると、その個体の人格をウイルス知性体が上書きしてしまうという設定もあって、ともすればSFホラーのような展開になってもおかしくはないのだが、本書の場合、そこから人間たち――具体的には都立城西高校の生徒たちと協力して、「脱獄囚」を見つけ出すというエンターテイメントとしてのストーリーへとつながっている。そのさいに、けっして欠かすことのできない要素となっているのが、この書評の冒頭でも触れた脳の機能障害をかかえた人の存在である。というのも、上述の「ある個体の人格と三十分以上同居することができない」という制約の例外事項として存在するのが、自閉症者であるからだ。

 まず「刑事」は、都立城西高校の生徒である我妻喚子に乗り移り、次に彼女のクラスメイト、神奈邦治の弟である自閉症者の泰弘へと乗り換えた。その代わり、泰弘の人格だけが押し出され、喚子のなかに入り込むという形となり、少なくとも喚子と邦治は否応なく今回の事件に巻き込まれてしまう。さらに「脱獄犯」が最後にいた場所が、邦治たちのクラスメイトだけがアクセス可能な裏サイトであったため、クラスメイトの誰かに「脱獄犯」が潜伏している可能性が高いという緊急事態となり、邦治のおさななじみでその場に居合わせていた倉橋茜にとっても他人事ではなくなってしまっている。

 こうして物語は、人間の誰かに逃げ込んだ「脱獄犯」をどうやって特定するか、という点を中心に展開していくことになるが、読み進めていくうちにわかってくるのは、本書がある種のゲーム性を備えているということである。「刑事」にしろ「脱獄犯」にしろ、憑代にした人間の体を操ったり、その記憶を操作したり、あるいは憑代以外の人間にトラップをしかけたりといった、ある意味でチートな能力をもっているが、同時にウイルス知性体であるがゆえの制約(三十分で人格乗っ取り→喋れなくなる→容易に特定)に縛られてもいる。言い換えれば、彼らは彼らなりのルールに従って鬼ごっこをしているようなものであり、それゆえに邦治たちは、とある事情で大人の助力を得られない状況にありながらも、そのルールの隙をついたり、あるいはその能力を活用したりすることで、「脱獄犯」を追い詰めるという「ゲーム」を進めていくことができる。そうした知能ゲームを進めるうえでの戦略性は、間違いなく本書を評するうえで大きな魅力となっているが、それ以上に重要なのが、自閉症者の存在の、物語全体における影響度の大きさである。

 たとえば、邦治や茜たちと「刑事」との意思の疎通について。ウイルス知性体はテレパシーで人間側の思考を読み取ることができるが、人間側が「刑事」の意思を理解するためには、彼がイメージとして提示する数枚のカードを読み解く必要がある。いわば連想ゲームで相手の言いたいことを憶測するという、非常に面倒な手順が必要となるのだが、本書を読んでいくと、まるで邦治や茜がとんでもなく頭の切れるスーパー高校生であるかのごとく、「刑事」の意図を読み取っていくように見えることがある。この点について明確な説明はないが、そのことと、ふたりが泰弘という自閉症者と常に対峙してきたこととは、けっして無関係ではない。この書評の冒頭で、私は脳の障害をもつ人たちを「異星人」と表現したが、それに似たような人との接触を、邦治にしろ茜にしろ日常的にやってきている、言葉というコミュニケーションの道具が使えない相手の意図を汲みとるという訓練を、辛抱強く積んできているからこそ、ウイルス知性体である「刑事」との意思の疎通も、臆せずに対応できると考えた方が自然だ。

 さらに言うなら、泰弘の人格を自分の体に同居させることになった喚子の役割がある。彼女は必然的に泰弘のヘルパーという役割を二十四時間請け負うことになり、その負担は相当なものだと邦治たちは予想していたのだが、話が進むにつれて、この共存関係が泰弘にとって、むしろストレスレスな状態であることに気づかされる。そしてその影響は、スボラなオタク腐女子であり、人と話すのが苦手な喚子の言動を変化させるにまで至っていく。著者が自閉症者について相当に詳しい知識や経験をもっているだろうことは、本書の内容からもあきらかであるが、著者にとっての自閉症者は、人間というよりは「異星人」、まさに本書に出てくるウイルス知性体のような存在により近いものだという認識があるからこその展開だと言うことができる。そしてその認識は、脳の機能障害について書かれた本からも、多かれ少なかれ読み取れるものである。

 本書は異星の生命体とのファーストコンタクトを扱ったSFではあるが、それ以上に自閉症者という「異星人」が物語のキーとなり、何よりその自閉症者がこのうえなく活躍するエンタメ小説であり、むしろその定義づけのほうが大きな意味をもつ。はたして邦治たちは「脱獄者」との頭脳戦を勝利することができるのか、そしてその過程において自閉症者たる泰弘がどういう形で絡んでくるのか、ぜひともたしかめてもらいたい。(2015.02.06)

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