【岩波書店】
『ジョコンダ夫人の肖像』

E・L・カニグズバーグ著/松永ふみ子訳 



 あなたは自分のものさしを持っているだろうか。他人の意見や世間一般の常識や、虚栄心や知識によって左右されることのない、自分だけの、まぎれもない自分自身が良いと思うものと、そうでないものとを選り分けることのできる、そんなものさしを持っているだろうか。

 ある意味、歴史小説というのは、作家独自のものさしを使って、歴史を、そして歴史上の人物を測りなおす行為でもある。例えば、佐藤賢一の『傭兵ピエール』では、学校の授業などで知識として詰め込まれた、世界史の情報としてのジャンヌ・ダルク像を、私たちと同じように血が流れ、呼吸をし、笑ったり泣いたりする一個の人間ジャンヌとして構築しなおし、その結果として正史そのものをねじ曲げることさえ厭わなかった。歴史小説として書かれたことが正しいかどうかは、あまり問題ではない。大切なのは、作者が何を正しいと信じることができるかであり、たんなる情報でしかない歴史上の人物に対して、どこまで自分のイメージを膨らませることができるか、ということなのである。

 本書『ジョコンダ夫人の肖像』のなかで、私たちはあのレオナルド・ダ・ヴィンチと会うことができるだろう。偉大なる芸術家であると同時に、偉大なる科学者であり、「モナ・リザ」や「最後の晩餐」といった名画を残すかたわら、建築や生物学にもたずさわり、空を飛ぶ機械の研究までおこなっていたという、「早すぎた天才」レオナルド・ダ・ヴィンチである。だが、本書の主人公となるのは彼ではなく、彼の弟子として、彼を観察する立場にいたサライという名の少年であり、彼と似たような輝きを心に宿した、後のミラノ公妃ベアトリチェの物語であると言うことができる。

 本書のプロローグにおいて、著者はひとつの疑問を提示している。「なぜ、レオナルド・ダ・ヴィンチは、よりによって、フィレンツェの名もない商人の二度目の妻の肖像を描いたのだろう」と。その肖像が、後に数多くの画家たちによって模写され、絵画界のみならず芸術界全体にとてつもない影響をおよぼすことになる、あの肖像であることは、おそらく容易に気がつくことだろう。その微笑みが何を意味するのか、彼女が何を訴えようとしているのか――そうした事柄については、すでに多くの人たちが限りない議論をつづけてきたことは言うまでもないことだが、そんな有名な絵画であるにもかかわらず、その作者であるレオナルド・ダ・ヴィンチがなぜあの肖像を描いたのか、という疑問について、私たちは驚くほど失念していることにも気づくことになる。そして同時に、著者はもうひとつの疑問を提示するのだ。なぜ彼は、サライを弟子として自分の近くに置きつづけたのか、と。

 実際、レオナルド・ダ・ヴィンチの弟子となる以前のサライは浮浪児であり、人のポケットから財布を盗む泥棒であり、芸術のことはもちろんのこと、明日のことさえまともに考えようともしない少年でしかなかった。さらには、レオナルドの弟子になるという、その当時においては最高の名誉のひとつを浴しておきながら、彼はそのことに感謝するどころか、できるだけ主人のそばから離れて、主人の創作ノートからアイディアを盗んだり、主人との面会を取り次ぐことで金儲けをすることばかりを考えていた。およそ芸術というものに関して理解する心を持ち合わせてはいなかったし、そのことを望みもしなかったのだ。

 だが、本書を読んでいけばわかるのだが、サライは教養はないが、けっして愚かではないこと、知識はないが知恵はあること、そして何より、自分をごまかしたりせず、ありのままの自分であることを受け入れることを知っている人間であることを知ることになるだろう。野放図で、自分自身に純粋すぎるほど正直であり、ときに「裸の王様」を笑う子供のように、迷信や処世術に惑わされることなく、物事の真実を見据えることのできる、ちょっとしたちゃっかり者のサライは、財産も教養もなく、日々の観察と経験の積み重ねがすべてに勝ると考えていたレオナルド――それゆえに自意識が強く、完璧を求めずにはいられない彼にとって、彼自身がもっとも求めるべき自由奔放さの代弁者の役目を果たすことになるのだ。

「おまえのレオナルド先生は、おまえの持っている何かを必要としているのよ。おまえの粗野なところと、無責任さが、必要なの」

 偉大な芸術には荒々しい要素が必要だと、ベアトリチェはサライに語る。因習や宮廷の作法に縛られ、レオナルドの作品や名声といった、うわべばかりに目を奪われて、レオナルド自身を見ようとしない取り巻きたちのなかで、ただひとりベアトリチェは、たしかにレオナルド・ダ・ヴィンチという人物の本質を、サライがつかんでいたのと同じようにつかんでいたと言うことができるだろう。美しい容貌と気品をあわせ持ち、常に周囲からちやほやされてきた姉のイザベラとは違い、容貌も器量もけっして良いとは言えないベアトリチェが、それでもミラノ公妃として生きていくためには、あるいは本当に良いものとそうでないものとを見分けるためのものさしに、さらに磨きをかける必要があったのかもしれない。そしてそれは、何の後ろ盾もなく、自分の頭脳と才能だけで生きていかなくてはならなかったレオナルドの姿と通じるものがあり、さらにはあの肖像画――絵そのものよりも、その評価や絶賛の声のほうがひとり歩きしてしまい、それゆえに、その肖像がなぜ描かれたのか、という本質の部分を置き去りにされてしまったあの「モナ・リザ」の現状とも通じるものがあるのだ。

 本書の訳者である松永ふみ子は、そのあとがきのなかで「名画モナ・リザ」ではなく、名もない商人の二度目の妻である「ジョコンダ夫人」として、気楽にあの絵を見てほしい、と書いている。そして奔放な自然児であるサライは、巨匠レオナルド・ダ・ヴィンチを、ただのレオナルドとして見ることのできる才能を持っている。サライの目から見たレオナルド像を、ぜひとも楽しんでもらいたい。そして、彼がなぜ「モナ・リザ」を描いたのか、サライの目を通して確かめてもらいたい。(2000.09.22)

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